2009年12月26日土曜日

12月26日 小屋

今日は久しぶりに小屋の作業。
雪や風の心配もしていましたが、雪や風にも耐えていました。
囲炉裏に炭を入れ、暖をとりました。
遠赤外線効果でポカポカです。

頂き物の上敷きを床に敷きました。
これでごろ寝もできますね。
ちょっと煙がいぶったいですが・・・。

買ってきたランプに油をつめ、点灯してみました。明るかったですが、もう1個いるかもです・・・。

ほのかなランプの灯りは良いですね~。

2009年12月22日火曜日

12月22日 赤塚の歴史

 赤塚には、たくさんの古い資料が保管されています。
 また、「赤塚郷土研究会」や「赤塚・中原邸保存会」といった地域の歴史に関して掘り起こしをしている団体もあり、歴史研究には熱心な地域です。
 

 赤塚にある赤塚公会堂には、古い文書があり、慶長11年の「鳥役(とりやく)定之事」の文書(もんじょ)や、江戸時代の検地地帳、明治時代の文書など、たくさんの史料が保管されています。
 今後、これらの史料をジワジワとまとめて行きたいな~と思います。


 江戸中期に農耕具に鉄器が普及し、その後に佐潟から伊邪那岐神社(現・赤塚神社)間の街道が整備されました(寛延4年に「へっぷり坂」の開通)。
 また、乳の潟(ちのがた)は、江戸後期(文政3年~)干拓が始められ、完成した新田を「藤蔵新田」と名づけられ、現在に至っています。 赤塚では、この干拓される前の時の状態から「島」と呼んでいます。確かに、今でもふと見ると、田んぼの真ん中に島があるようにも見えます。
 あと、赤塚と中権寺の間には、早潟という大きな潟がありました。早潟は、江戸後期に新田開発され、昭和になってゴミ処分場が造られ、つい最近にはこの付近から古墳跡が発見されています。 ここに古墳が発見されたということから、赤塚の近辺にも古墳があってもおかしくないと思います。縄文時代からの集落跡が発見されているので、その近辺でしょうかね~。
 
 
 明治中期頃が赤塚の最盛期で、宿駅・赤塚駅としても大いに機能して賑わっていました。
 この集落を計画、整備したのは、江戸後期の赤塚の大庄屋・石黒弾右衛門家と、石黒家に次ぐ大地主・中原藤蔵家です。
 文献には、文政11年に、中原藤蔵が二宮尊徳のところへ行ったと書かれています。藤蔵は、尊徳から新田開発・集落整備の技術を学び、それを赤塚へ活かそうと石黒家に相談したのでしょう。石黒家が中心となって整備を始めましたが、石黒家が途中で徐々に衰退していったため、替わって中原家が進めて行きました。
 そのため、明治初期の赤塚の民間の間取りからは、二宮尊徳の技術を活かしたと思われる間取りや建物が見られ、明治時代の古い写真からは板葺き屋根の立派な家並みを見ることができます。
 

 
 石黒家の屋敷の隣には、初代赤塚郵便局が建てられました。当時は海鼠壁(なまこかべ)の和風的な建物でしたが、後に2階建ての洋館の郵便局が同じ場所に建てられました。
 初代赤塚郵便局長は、石黒茂範(石黒弾右衛門家)で、2代目は中原遠志知でした。 中原遠志知は、2代目の赤塚村村長になっています。新潟市の発行する本には、洋館風の赤塚郵便局の写真が掲載されています。

 後に、石黒家屋敷跡には、保育園が建てられました。

 

 

 大慈寺の近くの家から、江戸中期、悦巌禅師という人が生まれました。

 近くの飴屋に、夜な夜な、決まって同じ時間に、とある女性が三文銭を手に飴を買いに来ました。不思議に思った飴屋の人は、その女性の後をついて行くと、中野家の墓地でその女性は消えてしまいました。不思議に思った飴屋の人と村人は、翌朝、墓を掘り起こしたら、女性の姿が見れ、抱きかかえるように赤ん坊がいました。すぐ脇には飴の棒があり、赤ん坊は生きていたので、育てられることとなりました。
その後、この赤ん坊は、大きくなり、僧侶として修行に行き、加賀の前田家の天徳院の大和尚に任命され、名僧として有名になりました。それが悦巌禅師(えつがんぜんじ)です。

 赤塚には、江戸時代に最大6つの寺院があったそうです。赤塚は僧侶にとってちょっとしたメッカなのでしょうか。関川村の「大したもん蛇祭り」の主人公でもある僧侶・蔵市は、京都で修行し、故郷の赤塚へ帰ろうと関川に寄ったら大蛇に逢った、という物語に登場します。

 

 

 大慈寺が明治42年8月1日に消失する前の写真が残されています。
 8月1日は、赤塚にとって今でも「厄日」と言われています。1600年8月1日に、赤塚のお城が「上杉遺民一揆(越後一揆)」で石黒家によって陥落・炎上したことから始まり、江戸中期に赤塚本町が8月1日に大火。明治42年8月1日の新町大火によって大慈寺や赤塚神社などが消失したそうです。

2009年12月19日土曜日

12月16日 大雪

予想的中に、15日夜にどっさりと雪が降ったようで、16日は積雪が30センチに。
この日~今日現在(19日)まで、「里型」の雪で、新潟市内の平野部は大雪となっています。
他の方々の話では、長岡や小千谷、柏崎、新津辺りではそれほど雪は積もっていないとか。
タイヤが雪で思うように動かず、苦闘しました。
赤塚でこれほどの雪が積もるのは珍しいでしょう。
赤塚は恐らく、県内でも有数の雪の少ない地域ですが、今回だけは・・・って感じですね。

あれから角田山にも雪が積もり、真っ白に。

佐潟の水面は氷が張って、カモは凍っていない所と凍っている所の水際に列を成して休憩中でした。

ときどき、ちょこちょこっと小鳥が氷の上を歩いていました。
 
雪は新聞によると、明日がおおきな雪だるまマーク。22日以降は雨マークでした。

2009年12月16日水曜日

12月12日 大内宿と日光に行ってきました(大内宿版)

この日、中学生時代の友人と福島県の大内宿と、栃木県の日光東照宮に行ってきました。
本ブログのタイトルと違う地域になりますが、旅行記ということで掲載させていただきます。
私の車のナビは、山道をナビし、クネクネ道を進みました。
峠を越えると、大内ダムが見えてきました。芝生の傾斜はちょっと圧巻でした。

大内宿の駐車場は、普通車300円、中型車400円、大型車500円だそうで、その収益は家並み保存に使われるそうです。
家の前には、干し柿が下げられ、風情を感じられました。

宿場町などに用水としてコウドがあり、以前群馬に行ったときにも見ることができた「コウド」がここにもありました。

この方角に日光街道に直線を引くと、会津の磐梯山へとその線が交わります。
当時、道路を作る際、山の山頂と山頂を線で繋いだ直線状に道路を設けたり、神社と神社を繋いだ直線状に設けたりという形で計画されました。
また、集落の入口を鉤型に曲げたりしました。
これは、集落内に邪気が入り込まないようにするためのものです。
一つ一つ手作りのお土産もありました。木彫りだそうです。

お店の人から、お土産の写真を撮らせていただきました。

萱葺きの民家が並んでいます。

曲がり角には、湯殿山の石碑がありました。
人々は、湯殿山まで行かなくても、ここでお参りできるというものです。

神社の脇から、景色を一望できました。

食事をしたところに囲炉裏があり、寒い日だったので、囲炉裏の遠赤外線の誘惑から離れなれずにいました。
火棚のところには、ニジマスが干されていました。
囲炉裏の煙にいぶされ、燻製になります。

大内宿といえば、1本ネギで蕎麦を食べるというのが有名ですが、当初は駐車場に近いお店が発端でしたが、今では大内宿のお店ならどこでもやっているそうです。
しかし、お店の人の話だと、今の季節のネギは辛味が強く、ネギの味しかしないので蕎麦の味を楽しむには普通の食べ方が良いですよということで、ざるそばにしました。
 
早めに御飯を食べ、お昼過ぎに日光へ到着しました。

12月12日 大内宿と日光に行ってきました(日光版)

午前中は、福島県の大内宿に行き、お昼過ぎに日光東照宮へ到着。
初の東照宮参詣で、たくさん写真も撮りました。
駐車場はどこか、迷いに迷ってやっとのことで駐車でき、いざ見学。
たくさんの人が訪れ、若い人たちから外人さんまで。
国際的に認められた日本の宝ですね。

煌びやかな装飾が。
五重塔は、奈良時代からそのスタイルをほとんど変わっていません。
地震対策に、継ぎ手・仕口(しくち)に余裕を持たせ、その空洞で地震の力を抑えます。

有名な三猿「見猿(みざる)」、「聞か猿(きかざる)」、「言わ猿(いわざる)」の彫物です。

陽明門と沿道の中心線が交わった交点から陽明門を見ると、ある日になると(夏至?冬至?)陽明門のほぼ中心の空に北極星がきます。
当時、江戸は地上の中心であり、その鬼門除けに日光東照宮が建てられました。東照宮は、宇宙の中心を示しています。

ちょうどこの日、神前結婚が行われていました。
末永くお幸せに。

陽明門の柱のうち、1本だけが逆向きに設置されています。これは、陽明門が未だに「未完成」を示しています。
「完成」の次に待っているのは、「崩壊」です。
「崩壊」しないよう、いつまでも東照宮を存在させるため、1本だけ逆さまにして「未完成」の状態にしてあります。

これが「完成」の形の柱。1本を抜かした全ての柱はこの向きになっています。

多くの人が次へ次へと進む中、ふと私は興味深いものを発見。
塀に燭台が設置されています。
これはおそらく、ライトアップ用に設置したもので、諸大名が東照宮を参拝する中、徳川家の権威を見せるために、ライトアップして立派な塀を見せたのではないかと思われます。

徳川家光の廟所、大猷院(たいゆういん)も見ました。
家光が日光東照宮を建造し、1年半で完成させました。
家光は、家康を深く信仰し、家康の廟所の近くに自分の廟所を建てさせました。
夜叉像が今も、門を守っています。

東照宮の拝殿の造りを、家康の法号である東照大権現から「権現造り」と名前を取り、大猷院も同じ造りになっています。
葵の紋入りの燈籠です。
同じ徳川家でも微妙に葵の紋が違うんですよ。

大猷院の門の上にある木鼻(きばな)です。獅子なのか、麒麟なのか、龍なのか・・・。

2009年12月15日火曜日

12月15日 やっと冬らしく

今朝、起きて窓を見たら、佐渡島は真っ白になっていました。
新潟県内、今週から冬モードに突入ってところでしょうか。
角田山も薄っすらと雪が積もっています。
時々、雪がパラパラと。今日の夜は、たくさん積もりそうな予感も・・・。

時折、雲が開けて角田山も見えます。
柿団地にも薄っすら積もっていますが、平野部は海沿いの角田浜・越前浜に薄っすらと積もっているようです。
 
角田山は、山頂に、坂上田村麻呂が剣(つるぎ)を埋葬して納めたと言われています。
その頃には、赤塚周辺は大いに栄えていたのでしょう。角田山から越後平野を一望し、田村麻呂はその安寧を祈願して、剣を納めたと思われます。

2009年12月4日金曜日

12月4日 小屋の囲炉裏にブロック囲い

今日の記事をアップしようと、グーグルで「新潟の自然・」と打ち込んだら、脇に484,000件の数字が・・・。

アクセス数なのでしょうか。とりあえず、484,000回も私のブログをご覧頂いていることに驚きました。今後もよろしくお願いします。
昨日は、午後1時半より柏崎市で会議があるということで、出席させていただきました。市議さん、コミセンの主事さん、こんな私をお誘いいただきありがとうございました。

赤塚地域にあるものを活かして、小屋を造っています。
この写真では、囲炉裏部分をただ繰りぬいた感じです。
今あるものと、地域を活かす。ちょっとした地産地消といった感じでしょうか。地域を活用する「地活」というのも大切だと思います。


今日の作業は、コンクリートブロック(単価:118円)を10個買って、それを囲炉裏にはめ込むというもの。

きっちりの寸法で計算して繰り抜いたので、ちょっとでもずれると大変。最後の1つを無理やり押し込み、なんとか全てをはめ込むことができました。
炉縁には竹を被せようと思っています。

2009年12月1日火曜日

11月27、28日 佐渡へ

この日、1泊2日で佐渡に行ってきました。
新潟港の佐渡汽船のりばの近くには、海上保安庁の巡視船が停泊していました。最近の船は良くわかりませんが、軍艦マニアの私には、興味津々でした。

特に船の先端部分は、興味津々。
巡視船なので、主砲部分はやや小ぶりな印象があります。

普段、新潟の市街地を海の上から眺めることはできないので、ちょっと感動しました。
小学6年生の時に佐渡へ修学旅行に行った以来の来島なので、その頃を思い出しながら楽しみにしていました。
その頃は、ジェットホイルに乗り、イルカさんが脇を泳いでいたので、イルカさんが見れないかと外を眺めていましたが、残念ながら見ることはできませんでした。

徐々に佐渡に近づいて行きました。
小佐渡(こさど)山脈が見え、両津港も間近に迫ってきました。

大佐渡(おおさど)山脈と、小佐渡山脈の間には、国中(くになか)平野が広がっています。
その中心には、国府川が流れ、毎年河口付近には白魚漁が行われています。
 
佐渡に行ったからにはトキを見ないと、と思いトキの野生復帰ステーション・トキ保護センターなどを見学させていただけました。
案内してくださった方々に、感謝申し上げます。

旧新穂村の、トキ保護センターは、多くの観光客が訪れる場所です。
中には、トキに関する資料館や、トキがいるゲージを見ることができます。

ゲージにはたくさんのトキが。
 
放鳥されたトキがねぐらにしている場所も、遠くから見学。でも、トキをこの眼でみるとはできませんでした。

公園の外には、真ん丸いドングリが落ちていました。
私は、何かに使えないかと思い、夢中になって拾っていました。
 

佐渡には、能・のろま人形といった伝統芸能や、宿根木といった古い集落など、歴史観光もたくさんできる場所です。しかし、観光地となっている場所は、全体のごく一部。知られていない場所も、観光地となりえる場所も多くあります。
今度、一人で、そうした場所を巡りたいと思います。

11月11日 何やら変な小屋が・・・

佐潟の近く、某所にて(地元の方々はこの場所を「杉んドウ」と呼んでいます)小屋を作製中です。
「杉んドウ」は、活字では「杉ダゴ」と書きます。
完成したら「杉んドウ ハウス」とかという名前でも付けようかと思います。
材料は主に、佐潟脇の松林で支え木として使われたものを利用しています。

なるべく手間をかけないで造るためには、どうしたらよいか、ということでこの形を考案。

現在も作製中で、年内には完成したいと思っています。
「この小屋は何に使われるのですか?」と道行く人に聞かれることもしばしば。休憩所や工作場として使えるようにしたいと思っています。
ただ、夜間は防犯を考え、鍵をかけられるようにしようと思っています。
 
また、作業中、この小屋の完成を楽しみにしている方や、「自分も山小屋を造りたいけど、造り方の参考にできて良い」というご感想もいただきました。

10月18日 佐潟でコイの放流

この日、佐潟でコイの放流が行われました。
コイは、三宮から来たそうです。
車に水槽を積んで、その中にたくさんのコイが入ってます。

大きさは15~20センチ程度。
食べるにはちょっと・・・っという感じでしょうか。

放流が始まっても、なかなかコイは散らばってくれません。
生簀(いけす)に飼われていたころ、餌を貰うために群がる習性があるそうで、慣れて散らばるまでちょっと時間がかかるそうです。
近くには鵜が食べごろなコイを待ち望んでました。