2010年7月15日木曜日

ちまき作り

先月、柏崎市の上条(じょうじょう)コミュニティセンターで、ちまき作りをしました。
初体験なので、教えてもらいながら作りました。
材料をあらかじめ用意し、笹の葉は冷凍してありました。

作業は、笹の葉にもち米を包むだけ。
食べるときに茹でます。

他の人の手つきを見ながら、挑戦してみました。
何回か個数をこなして行くうちに、さまになってきました。
教えてくださった皆様には感謝ですね。
もう、包み方と結び方はマスターしました。材料さえあれば、いつでも作れます。
地域によっては、長細いちまきもあるそうです。
今度は、笹団子作りにも挑戦してみたいです。

長野へ旅行 その1 (旅行記)

先月、長野旅行に行きました。その時ことを載せたいと思います。
下道で、海岸線を通り、上越から妙高方面へ。牟礼から裏道を通り、一路姨捨へ行きました。
姨捨は、高速道路のSAがあり、そこからの景色は最高です。特に夜景は絶景です。
その高速道路のすぐ下には、棚田が広がっており、有名だそうです。

その後、松本に程近いところに宿泊しました。
朝、5時頃に起きたら、外には雲海が広がっており、感動しました。
 新潟県内の松代にある温泉施設「雲海」からは、お風呂から雲海を見ることができるそうですが、雲海が見れるのは朝早い時間で、お風呂はそのときはまだ閉まっているので、雲海は見れなさそうです。
でも、部屋からは見れるかもしれません。
南アルプスに近いところに、「下栗の里」という集落があります。
 傾斜地にある集落で、集落までの道は、とても狭かったです。集落内の道はもっと狭く、車がすれ違うことは不可能でしょう。
 また、この風景を見るポイントまでは、駐車場から上って、山林を入り、20分くらい歩きます。
下栗の里から、さらに山伝いに登り、「しらびそ高原」に行きました。
 途中の道路は、所々に落石が散乱し、ちょっと怖かったです。でも、途中、運転中に鹿を見ることができました。
 しらびそ峠からは、大沢岳や小赤石岳、光岳、兎岳、茶臼岳などの山々を見ることができました。

宿泊するホテル「しらびそ高原ホテル」は、標高1918mのところにあります。
しらびそ峠から車で5分ほど。
夕食には、イノシシ肉や鹿肉などが出ました。まさか、あの時の鹿ではないでしょうが・・・。

翌日、飯田市を通り、木曽方面へ。
以前から行きたかった「妻籠宿(つまごじゅく)」に行きました。
中山道の宿場町として、また現在では伝統的建造物群保存地区としても、多くの観光客でにぎわっていました。
防火装置が入っているところには「火乃要鎮」が。
風情ありますね。

明治天皇巡行の際に休憩をした脇本陣があります。
中に入るには入館料がかかりますが、私は外だけ拝見しました。

郵便局も風情ありますね。特に、この手前のポストでしょうか。
「〒」のマークのある看板も、良い感じですね。

観光案内所は、擬洋風な建物です。

この部分は、日本発の町並保存地区です。
郵便屋さんが衣装をまとい、配達中でした。こういう場所だからマッチしていますね。
赤塚でこんな格好していたら、ちょっと浮いてしまいそうですね。

この部分は、よく旅行雑誌で紹介されている場所です。
街道を階段や坂道で登り降り。

 街道が屈曲しているのは、外部からの敵が直進できないようにする、ということが一般的に言われています。城下町は、特に敵の侵入を考慮して道路が設けられています。しかし、街道に接する宿場や農村など、有事とあまり関係の無いような地域で街道を屈曲させているのは、邪気の侵入を防ぐ目的があります。
 邪気は道路を直進すると言われ、街道を屈曲させ、その直線状に神社や寺を配置します。その神社や寺が邪気を吸収し、集落内に邪気を入れず、繁栄につなげようという人々の想いがあります。
 ただ敵の侵入を防ぐだけではなく、こうした集落への人々の想いを、屈曲箇所を見て考えてみるのも良いでしょう。

妻籠宿の途中、無料休憩所もあります。

お昼ごはんに、蕎麦を食べました。
私は、格子が好きで、建物内から格子越しに外の景色を眺めるのも良いですね。

妻籠宿の名物「五平餅」。2本食べるだけでもお腹いっぱいになります。

長野へ旅行 その2 (旅行記)

先月、長野へ連泊で旅行に行ったときの写真です。
ここでは、奈良井~松本~鹿教湯について載せたいと思います。

奈良井宿は中山道(中仙道)にある宿場町です。
集落全体は伝統的建造物群保存地区として町並保存されています。
そのため、自動販売機も景観に考慮されていました。

いたるところに、手水舎があり、誰でも水を飲むことができます。

ちょっと一工夫でしょうか。
お手製の昆虫が、入口の燈籠の上にありました。

松本城に行ったときは、少し小雨が降っていました。
夜はライトアップしており、昼間とは違う印象を受けました。

松本城の天守閣です。
傾いたものを改修し、現在の姿になりました。全国的にも数少ない、現存する天守です。
ちなみに、天守とは、主に倉庫として使用されたものです。居住性を持った天守はとても少なく、むしろ兵糧や武器などを保管する場所として使用されていました。

上高地に行ったら、曇り空で山々がよく見えませんでした。
大正池も、もはや池ではなく、川になりつつなっています。

有名な河童橋も多くの観光客でにぎわっていました。
特に、中国人観光客は多かったです。

鹿教湯温泉に宿泊しましたが、近くの文殊堂という建物に行きました。
建物は古く、歴史を感じました。

鬼瓦の鬼の面も、迫力があります。
邪気は、妻側から入り込むと言われ、邪気を祓うために鬼瓦を置きます。

2010年7月3日土曜日

7月3日 赤塚の小路と北国街道

 赤塚は、江戸時代、新潟から弥彦の中間地点の主要都市として栄えた「在郷町」です。
「在郷町」は、宿場機能を持ち、一見すると農村にも見える集落で、商工業が発展し、労働者も居住していました。
 戦国時代の城下町が、江戸時代に農村集落へと変貌したものが、「在郷町」として形成される例が多く、赤塚も同様の形態だと思われます。

赤塚の集落中央には、背骨のように北国街道・北陸道が通っていました。
その街道を軸に、小路が存在していました。
 その中で「権現小路」は、現在も呼ばれていますが、他にもあるのでは?と思い、調べてみましたら、明治時代の資料から、上の図のような小路名がわかりました。

 この図は、太線が北国街道・北陸道、楕円が村の名前、潟の名前などが描かれた絵図をなぞったものです。江戸中期から後期の絵図と思います。
 街道の形状が割と詳しく描かれています。赤塚の周辺には、たくさんの潟がありました。新川が開通すると、これらの潟は排水され、新田開発が行われました。