2010年5月25日火曜日

5月22日 東京・池袋 巣鴨プリズン跡(旅行記)

池袋にある公園に行って来ました。
かつて、ここには「巣鴨プリズン」と呼ばれた施設がありました。
 巣鴨プリズンの敷地には現在、東池袋中央公園(写真)、サンシャインシティ文化会館、サンシャイン60、サンシャインシティプリンスホテル、サンシャインシティ、ワールドインポートマート、サンシャイン国際水族館があります。

 通称・巣鴨プリズンは、「巣鴨拘置所」であり、現在の東京拘置所の前身です。1944年に、ゾルゲ事件の主犯:リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実の死刑が執行されました。
 また、他に、共産主義者の思想犯、反戦運動に関わった宗教家なども拘置されていました。
 
 終戦直後、GHQが中心となって「極東国際軍事裁判(東京裁判)」の被告とされた、戦争犯罪人(戦犯)容疑者(A級・B級)が収容され、判決後は、東條英機首相ら7名を含む戦犯の死刑(絞首刑)が行われた場所です。(東條英機、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、武藤章、松井石根、広田広毅の7名)

 東池袋中央公園の一角には、平和の石碑があるだけで、当時の面影を知ることはできません。
今では敷地内には、高層ビルが立ち並び、この日も若者をはじめとした多くの人々の憩いの場として利用されていました。

5月22日 東京・靖国神社へ (旅行記です)

東京・九段下にある靖国神社に行きました。
靖国神社は、江戸城の田安門のすぐ北にあり、日本武道館とも近い距離にあります。
靖国神社の入口にある大鳥居は、日本一。弥彦の大鳥居は日本で3番目です。

  靖国神社の「靖国」とは、「国を靖んずる(安らかにする)」という意味、「祖国を平安にする」、「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
 起源は、明治2年(1869)6月29日に建てられた「東京招魂社」にさかのぼります。当時、幕末の騒乱や戊辰戦争といった近代国家建設のために尽力した多くの方々の尊い命が失われてしまいました。
 そこで、明治天皇は、国家のために一命を捧げた方々の御霊(みたま)を英霊(えいれい)として慰め、この事績を後世に伝えようと、この建物が建てられました。
 明治12年(1879)に「靖国神社」と改称されました。
 明治天皇がお詠みになられた「我が国の 為をつくせる 人々の 名もむさし野に とむる玉かき」のお言葉からも、靖国神社の本当の重要性を知ることができます。
 しかし、残念ながら、この本当の意味や重要性を知っている国民、外国人は少ないというのが現状です。
大村益次郎は、近代日本陸軍の創設者です。
オデコが広い方で有名ですね。

「神門」は、昭和9年(1934)に建てられたものです。門にある菊花紋章は、直径1.5m。
手前の大手水舎(おおちょうずしゃ)で、手と口を清めます。
手水(ちょうず)で清める作法は、両手を清め、口を清め、最後に柄杓(ひしゃく)の柄(え)を清めます。茶道と同じ作法ですね。

 「拝殿」は、一般の方々が自由に参拝する場所で、お賽銭箱があります。明治34年(1901)に建てられました。

 「拝殿」の奥には、神霊が鎮まる「本殿」があります。現在の本殿は、明治5年(1872)に建てられ、昭和61年(1986)から3年をかけて解体修理され、当時の姿のまま建替えられました。
 普段の参拝は、「拝殿」のみですが、玉串料を納めれば「本殿」の参拝・お払いができ、お神酒をいただくことができます。私も、本殿にて参拝・お払いし、お神酒をいただきました。
 
 私のほかに、4名の方が一緒に参拝しましたが、その中で3名1組で香川から来られた人がいました。参拝を終え、「こうして会えたのも何かのご縁、一期一会」と、お話をお伺いしたところ、お婆さまの旦那さまが特攻隊だったとか。
 靖国神社には、幕末の人も祀られ、坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作、橋本左内も祀られています。
 また、従軍看護婦や女学生、学徒動員で軍需工場で亡くなられた学徒、文官、民間の方々も含まれています。
 シベリヤ抑留中に死亡した軍人・軍属、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々も同様に祀られています。一律平等に祀られているのです。
 もちろん、新潟の長岡出身の山本五十六さんも祀られています。
 
 一律平等に祀られているのは、靖国神社の目的である「国家のために一命を捧げられたこれらの人々の霊を慰め、この事績を後世に伝える」ことにあるからです。
 
 日本のために命を捧げられた方々がいたからこそ、今の日本があり、私たちがいるのだと思うと、こうした方々への尊敬と、感謝の念を抱きました。本殿では、英霊に対し感謝の黙祷をしました。
 境内にある「遊就館」には、靖国神社に関係する品々が多く展示されています。
 明治・大正・昭和天皇様が着用になられた軍服の実物も展示され、特攻や戦争で亡くなられ靖国神社に英霊として合祀されている方々の写真や遺品・遺書をみることもできます。
 
 かつて、戦時中に「靖国神社でまた会おう」と、戦友と交わしたように、遺族も靖国神社に行けば会えるという意味もあり、先祖の事績を知ることができる場所でもあります。
 館内に展示されているものには、戦艦「三笠」や戦艦「武蔵」・「大和」の主砲の玉、軍服、銃、大砲、戦闘機、回天などといったものがあります。 戦艦「武蔵」・「大和」の玉はやっぱり大きいですね(世界一です)。
 遊就館のメインフロアには、零式艦上戦闘機五二形 三菱製があります。通称、零戦と呼ばれているものです。

 零式艦上戦闘機は、当時、アメリカ軍にとって脅威の戦闘機でした。しかし、軽量化により燃料タンクの防弾がされてなく、一撃を受けると火を噴きます。また、機体を軽量化したため、高速の急降下攻撃ができないという問題もあり、アメリカ軍は零戦に背後を取られた場合、急降下で逃げれば、零戦は追ってこれないという作戦により、形勢は逆転しました。

館内には、陸軍・海軍の品々があり、写真は陸軍が使用した大砲です。

館内には機関車もあります。
昭和は激動の時代でしたが、一方で良い時代でもありました(一応、私も昭和生まれですが)。
 
また今度、靖国神社に行きたいですね。一緒になった香川から来られた方も「ここにくると何だかホッとしますよね。」と言われましたが、「ここに来れば会えるんだ」という気持ちがあると感じました。

5月初旬 弥彦山

弥彦スカイラインに行ってきました。
弥彦山と多宝山(たほうざん)の中間にある駐車場からは、越後平野を一望できます。
弥彦山は丸みを帯びた山で、山頂付近には多くのテレビ搭が建っています。東京方面からの電波を越後平野全体へと送っているのだとか。
越後平野から弥彦山を見ると、左側に丸みのある弥彦山と、富士山のような三角の多宝山をみることができます。


弥彦スカイラインは、無料で夜も23時までなので、夜景も見ることができます。とてもきれいでした。
駐車場にある隣の車・・・、弥彦スカイラインにちなんでか、スカイライン(車種)が・・・。

田植えシーズンでもあったので、水を張った水田が見ることができます。
これからは、稲の緑が生えて、緑の平野の姿を見ることができるでしょう。

多宝山の山頂には、気象台の建物があります。
なんだか、富士山みたいに見えますね。

4月27日 村上市のお城山

村上市にある村上城跡に行きました。ここは、市民から「お城山」の名前で親しまれ、桜もきれいな場所です。
山麓には、城主や政務の屋敷や、中世に造られた曲輪(くるわ)が広がり、併せると大きな規模のお城でした。
村上城は、江戸初期に堀直寄によって築かれた「平山城(ひらやまじろ)」の形式であるお城です。

臥牛山(標高135m)は、その全容が牛が伏している姿に見えることからこの名前になっています。
山頂の城郭まで行くには、この「七曲道」と呼ばれる道を歩かなければなりません。
改めて、自分の運動不足を痛感しました。
斜面には、ブナが生い茂っています。

山頂の城郭への最初の入口「四ツ門」です。
この門は、入口が四方に入口がある、とても珍しい門です。また、三の丸(写真の奥側)と二の丸をつなぐ門でもあり、軍事上重要な門でもあります。


村上城の東側には、斜面に無数の曲輪があります。これは、中世、本庄氏の居城であったころのもので、江戸時代も使用されていました。
東門は、これらの曲輪と、山頂の城郭の中間に位置する区切り的な門です。
今では、残念なことに、石垣がボロボロになっています。もう少し、整備されると良いですね。


さて、実は私、お城マニア暦13年です。今あるお城を見るのもさりながら、建物が残っていない城を中心に見ています。
かつての姿を妄想するのは、とても面白いです。軍事的、兵法、時代背景、その時代の技術などの視点で見ると、石垣だけしかないお城も、自分のイメージとして何だか建物があるようにも見えてくるのです。
 
写真の「御鐘門」は、外部から右曲がりで進入します。(矢印の通り)
これは、孫氏の兵法に、「利き手」に関係します。多くの人は「右利き」です。右利きは、左側への攻撃は容易ですが、右側への攻撃は難しいのです。 試しに、何か棒を槍代わりにして振ってみると分かります。
つまり、敵は右への攻撃にもろく、城内の兵は敵の右側を攻撃するという戦法になります。


本丸の石垣は、「扇の勾配」と呼ばれるもので、上へ行くにつれて角度が急になります。
当時の技術の凄さに驚きます。

今も、本庄氏の時代の曲輪を見ることができます。
中世・戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の城郭の姿を見ることができます。

石垣をよく見ると、何やら穴があります。これは礎石です。
柱を立てる際に、礎石と柱をつなぐための穴です。
 
その穴に柱をイメージすると、写真のようになります。写真の左手は小さな入口(くぐり戸)があったということが分かるかと思います。

この2つの穴は、門の上にある櫓を支える柱です。

この穴から、おおよその門の柱スパン(間隔)がわかります。1間くらいですね。

本丸からは、村上市街地を一望できます。

村上市の三面川(みおもてがわ)は、江戸時代に、鮭の養殖で藩を支えた恵みの川です。
今は、近くに「サーモンパーク」や、「イヨボヤ会館」があります。
村上では、鮭を「イヨボヤ」と呼んでいます。鮭を切るときも、腹を完全には開きません。へその辺りを残してきります。これは、武士の「切腹」を嫌う風習が今もあり、軒先に乾燥のために乾された鮭を見ると、お腹の一部が繋がっているのを見ることができます。
 
村上市では、商店街が観光の一環として、各町家にある雛人形や屏風を展示し、町家を巡り歩きができる催しが行われて、毎年、多くの観光客が訪れています。

この日は、うっすらと粟島をみることができました。
また、南東側には、飯豊の山々や、会津の磐梯山を見ることもできました。

村上市街地を一望でき、もしかしたら夜景も良いかもしれませんね。
でも、夜道はちょっと怖そうです・・・。

桜も満開。桜の花ってこんな感じだったのですね。

一生懸命に花を咲かせている桜をみると、植物の生命力に感心します。

4月21日 午前 高田公園「観桜会」

地元の親友と一緒に、桜を見に行きました。
午前中は上越市の高田公園、午後は柏崎市の赤坂山公園に行きました。
桜も散り始め、道路やお堀には多くの花びらが落ちていました。
一般駐車場が川の河川敷で、遠かったです。でも、シャトルバスを使わず、健康を考え、10分くらい歩くことにしました。
「日本三大夜桜」のひとつである高田公園は、江戸時代の高田藩の城でした。

築城したのは、徳川家康の6男・松平忠輝で、越後高田60万石(信濃川中島10万石を併せて70万石)の大大名としてふさわしいお城にすべく、正室の五郎八姫(いろはひめ、天麟院)の父である伊達政宗が中心となって築城されました。
ただし、石垣がなく土塁と堀に囲まれた城で、天守の代わりに三重櫓がありました。
 
忠輝の領地は、上越、中越、新潟付近にも及び、越後国の半分近い領地を有しておりました。キリシタンにも関係しており、今もその名残として、柏崎市内に隠れキリシタンの石碑などがあります。
また、赤塚も忠輝の領地で、佐潟・御手洗潟・乳の潟に対して、潟を使うことへの税金として「潟役(かたやく)」、潟に飛来する鳥を捕まえ売買することへの税金としての「鳥役(とりやく)」といった、「小成物(こなりもの)」と呼ばれる課税を行いました。「小成物」は、全国的に行われた課税ですが、赤塚では、明治8年まで、「潟役」・「鳥役」が行われており、その税金は村へ納められ、潟を保全するための資金の一部に充てられていました。

今ある櫓は復元されたもので、当時の姿を想像して建てられました。

4月21日 午後 柏崎市の赤坂山公園

午前中は、高田公園の桜を見て、午後は帰り途中に柏崎市の赤坂山公園に行きました。
この日は薄曇で、肌寒く、足早に桜を眺めるだけでした。

赤坂山付近の山林は、かつて柏崎市を代表する大地主・飯塚家の土地でした。
赤坂山公園のすぐ近くには、モミジで有名なお茶室もあります。
毎年、市民や市内の大学生などがお花見に来ており、私も学生時代にお花見に行っていました。


赤坂山公園には、植物も多く、植物の名前が書かれた看板もあるので、植物観察などを楽しめそうです。