2009年10月23日金曜日

10月23日 佐潟の夕日

午後、西区の商工会女性部の方々が、「中原邸」と佐潟に来られました。
私は、「中原邸」の案内をしました。ちょっと緊張しました・・・。
「中原邸」案内後、商工会女性部の皆様は、佐潟に。
今度は潟舟で案内。しばらくして白鳥が数羽、佐潟に入ってくるのを舟の上から見れました。
夕日も最高で、終わって慌ててカメラを用意。


舟と一緒に撮ってみました。

2009年10月22日木曜日

10月22日 アカトンボの日光浴

今日は晴天。でもちょっと空気が乾燥気味で、喉がイライラしました。

佐潟水鳥・湿地センター脇の柵に、アキアカネ(アカトンボ)が止まっていました。

さて、トンボの向きに注目です・・・。

みんな同じ方向を向いています。
これは日光浴をしているのです。電線に止まっているトンボとか見ても分かりますが、太陽の方向に胴体の広い面を向け、体を温めているのです。

みなさんも、今度、トンボを見たら観察してみてください。

10月20日 佐潟村研修に参加

佐潟村の皆さんの研修会にお仲間させていただきました。
行ったところは、群馬県の「たくみの里」。

案内所は道の駅となっていて、平日でも車がたくさんありました。
たくさんの工房があり、体験できるようになっていました。
須川宿は、三国街道の宿場町で、メインストリートは宿場の景観を残すようになっています。
本陣跡には、かつて本陣兼問屋場があり、明治時代の建物がありました。

街道沿いには、コウドという洗い場がありました。ここでは、洗濯や食器を洗ったり、飲み水の確保などをしていました。
新潟県内各地でも、城下町や宿場町、農村などに河川または用水がある場合、コウドが造られ、生活の一部となっていました。

街道沿いには、こんな石碑も。割りと新しいものですね。

景観に配慮して、側溝の蓋も木製でした。


たくさん工房があり、分散しているので、そこまでの案内看板があちこちにありました。
とても見やすいもので、赤塚にも将来的に歴史とか色々な情報をこのような看板に入れて設置したいですね。
帰りは高速を使わず、三国街道を一路、新潟県へ。峠付近は雲がモクモク。紅葉が綺麗でした。
今回の研修で、色々工芸品などを見て、佐潟バージョンの何かを作れそうな気がしました。

2009年10月14日水曜日

10月12日 中原邸の一般公開と赤塚巡り

この日、赤塚の富農「中原邸」の一般公開が行われました。
普段は、「赤塚・中原邸保存会」の皆様が清掃活動をする時、会員の方だけ入ることができますが、一般の方には公開されていません。
年に2回、4月と10月に、1日限定で一般公開をしています。
この日、佐潟では「ハス・ヒシとり大会」が行われ、親子合わせて約40名が参加。
中原邸は10時~16時まで公開が行われました。
私は、午前中佐潟でヒシをモギモギしていました。


「中原邸」は、明治11年9月16日、明治天皇が北陸巡幸でご昼食を取られた所で、行在所(あんざいしょ)となっています。
行在所として、ほぼ当時のままの姿をとどめ、かつ現在も民家として使用されているものとしては、全国的に数少ない屋敷だと思います。
この日、特別展示された木杯は、巡行後に、天皇家から賜ったものです。

中原邸(中原藤蔵)は、明治時代、田畑合わせて290町歩の土地を所有していました。
私は、午後から、案内人として大茶の間で解説していました。
来訪者からは、「石高(こくだか)は幾つですか?」という質問がありました。290町歩なので、単純計算すれば2900石(1町歩:10石、1反:1石)となります。
しかし、関川の渡邉邸・沢海の伊藤邸などは1000町歩を越える「豪農」で、その中から見れば、中原邸は中規模の「富農」となります。

明治天皇がご昼食を取られた上段の間は、一段高く設けられています。
上段の間・二の間(富士の間)・三の間(鶴の間)の鴨居には行田魁庵(なめたかいあん)の作品。天袋の絵は松川藤陰(まつかわとういん)の作品があります。

中原邸には駐車場が無いため、佐潟公園駐車場から歩いて行くというものでした。でも、赤塚の歴史マップを1部100円で貰え、それを手にそれぞれポイントをまわって見ました。
各ポイントの説明と、現地には高札が立てられています(短期間のみ設置)。
大慈寺の鐘楼にある梵鐘は、戦時中、謎の大爆発を起こして広島湾で沈没した戦艦「陸奥」の主砲の台座を一部引き上げた際、その鉄(陸奥鉄)を溶かして造られました。
坂の途中にある石黒家墓地は、石黒家屋敷内にあったものを後に移したものです。

赤塚には「城山」という地名があります。
歴史から見ると、赤塚に城があったことを見ることが出来ます。

城山は、ハーブランドシーズンからウェルサンピア新潟への間にある畑です。
佐潟脇の斜面には、空堀の跡を見つけることができました。

2009年10月6日火曜日

10月4日 赤塚・中原邸保存会 米沢研修

「赤塚・中原邸保存会」の研修会に参加しました。
朝、早くに集合のため、ちょっと寝ぼけていました。
1598年、上杉家は越後国から会津へ国替えし、後に米沢へ移りました。
道の駅いいでに、休憩中、駐車場に昔の車がありました(オート3輪、ダイハツ)。
「日本昭和の車保存会」と車のドアに書かれていました。


上杉家御廟所に行きました。現地でボランティア解説をしている人から山形弁の訛りある言葉で説明を受けました。なかなか面白い人でした。

観光客は御廟所をじっくり見てましたが、私はその手前にある燈籠をじっくり見てました。
ふと見ると、何やら名前が書かれています。
ほとんどが越後国出身の、上杉家古来の家臣の子孫で、色部(平林城)・毛利(刈羽郡・安田城)・本間(佐渡国)・本庄(岩船郡・本庄城)などなど。
越後の人の名前を見れました。

お昼は米沢城の近く、城史苑で食べました。
駐車場は、「天地人」ブームで、大賑わい。

伊達政宗は米沢城出身。
お城は、石垣がないのは、幕府に配慮したもので、天守閣もなく御三重櫓と称していました。
米沢城のまわりには色々見るところが密集しています。

お堀のコイがたくさん。おいしそうですね~。
錦鯉も食べれます。新潟の山古志地域では、真鯉もいますが、錦鯉の方が多く、冬場の蛋白源として錦鯉を食べます。皮を剥いでしまえば錦鯉だと分かりません。味は真鯉とほぼ変わらないそうです。

林泉寺は、上杉家が会津へ国替え後、越後から会津へ移りました。その後、米沢へ移り、現在に至っています。
ここには、直江兼続やお船の墓、菊姫(武田家出身・上杉景勝の正室)、仙洞院、甘粕景継の墓があります。


甘粕景継の墓です。越後国枡形城の城主で、後に白石城の城主となりました。

直江兼続の墓です。隣には、お船の墓があります。

2009年10月1日木曜日

10月1日 スッポンのジュニア

早くも10月。1年もあっという間に過ぎようとしています。
今日、佐潟でスッポンのジュニアが捕れました。
かわいい~(≧≦)
手乗りスッポン。
まだ小さいので噛み付きません。


手の上でチョコチョコと動く感触が何とも言えませんね。

ジュニアと言えども角度によっては勇ましい感じにも見えます。
でも、かわいい。

大きくなるまで数年、食用まで10年くらいかかるそうです。
家で飼おうと思います。
名前は何にしようかな~。
飼ったのを大きくなったからっといって食べるのも、ちょっとかわいそうな気がします。
でも、スッポンちゃんが、ちゃんと天寿をまっとうするまで責任持って飼いたいと思います。