2010年8月24日火曜日

8月21日 角田山提灯登山

この日、角田山提灯登山があるということで、数年ぶりに角田山を登ることにしました。
角田山に登る最短コースの稲島(とうじま)コースから登ります。
入り口には、出羽三山の石碑がありました。

稲島コース駐車場からすぐ、登山口があります。
入り口には、枝の杖があるので、登山する時に利用できます。

駐車場を降り、稲島集落の公民館へと行きます。
途中に案内がありますので、初めての方でも安心です。

稲島公民館で受付をします。
 提灯とご飯の提供がありますが、私は受付をせず、自分のペースでゆっくり登山できるのと、早く行けば場所も取れると思い、一足先に登ることにしました。

9合目の観音堂から越後平野を一望できます。
佐潟も眺めることができます。

水田の稲穂の緑がきれいですね。
写真の左手に見えるのは上堰潟公園、右側は仁箇堤です。
かつて、明治時代まで、この辺一帯には潟が点在していました。

夜になると、新潟市街地、西川、巻などの夜景を見ることができます。

角田山提灯登山の魅力は、目の前で花火を見ることができ、その迫力を味わえることだと思います。
県外からも、参加者がいるようです。
参加の際、懐中電灯は必需品ですね。私は、2つ用意し、蚊取り線香も2つぶら下げました。下山は夜道で、懐中電灯を持ってきていなかった方に、1つお貸ししました。


少しだけ花火の動画もアップします。その迫力が伝わるでしょうか?

2010年7月15日木曜日

ちまき作り

先月、柏崎市の上条(じょうじょう)コミュニティセンターで、ちまき作りをしました。
初体験なので、教えてもらいながら作りました。
材料をあらかじめ用意し、笹の葉は冷凍してありました。

作業は、笹の葉にもち米を包むだけ。
食べるときに茹でます。

他の人の手つきを見ながら、挑戦してみました。
何回か個数をこなして行くうちに、さまになってきました。
教えてくださった皆様には感謝ですね。
もう、包み方と結び方はマスターしました。材料さえあれば、いつでも作れます。
地域によっては、長細いちまきもあるそうです。
今度は、笹団子作りにも挑戦してみたいです。

長野へ旅行 その1 (旅行記)

先月、長野旅行に行きました。その時ことを載せたいと思います。
下道で、海岸線を通り、上越から妙高方面へ。牟礼から裏道を通り、一路姨捨へ行きました。
姨捨は、高速道路のSAがあり、そこからの景色は最高です。特に夜景は絶景です。
その高速道路のすぐ下には、棚田が広がっており、有名だそうです。

その後、松本に程近いところに宿泊しました。
朝、5時頃に起きたら、外には雲海が広がっており、感動しました。
 新潟県内の松代にある温泉施設「雲海」からは、お風呂から雲海を見ることができるそうですが、雲海が見れるのは朝早い時間で、お風呂はそのときはまだ閉まっているので、雲海は見れなさそうです。
でも、部屋からは見れるかもしれません。
南アルプスに近いところに、「下栗の里」という集落があります。
 傾斜地にある集落で、集落までの道は、とても狭かったです。集落内の道はもっと狭く、車がすれ違うことは不可能でしょう。
 また、この風景を見るポイントまでは、駐車場から上って、山林を入り、20分くらい歩きます。
下栗の里から、さらに山伝いに登り、「しらびそ高原」に行きました。
 途中の道路は、所々に落石が散乱し、ちょっと怖かったです。でも、途中、運転中に鹿を見ることができました。
 しらびそ峠からは、大沢岳や小赤石岳、光岳、兎岳、茶臼岳などの山々を見ることができました。

宿泊するホテル「しらびそ高原ホテル」は、標高1918mのところにあります。
しらびそ峠から車で5分ほど。
夕食には、イノシシ肉や鹿肉などが出ました。まさか、あの時の鹿ではないでしょうが・・・。

翌日、飯田市を通り、木曽方面へ。
以前から行きたかった「妻籠宿(つまごじゅく)」に行きました。
中山道の宿場町として、また現在では伝統的建造物群保存地区としても、多くの観光客でにぎわっていました。
防火装置が入っているところには「火乃要鎮」が。
風情ありますね。

明治天皇巡行の際に休憩をした脇本陣があります。
中に入るには入館料がかかりますが、私は外だけ拝見しました。

郵便局も風情ありますね。特に、この手前のポストでしょうか。
「〒」のマークのある看板も、良い感じですね。

観光案内所は、擬洋風な建物です。

この部分は、日本発の町並保存地区です。
郵便屋さんが衣装をまとい、配達中でした。こういう場所だからマッチしていますね。
赤塚でこんな格好していたら、ちょっと浮いてしまいそうですね。

この部分は、よく旅行雑誌で紹介されている場所です。
街道を階段や坂道で登り降り。

 街道が屈曲しているのは、外部からの敵が直進できないようにする、ということが一般的に言われています。城下町は、特に敵の侵入を考慮して道路が設けられています。しかし、街道に接する宿場や農村など、有事とあまり関係の無いような地域で街道を屈曲させているのは、邪気の侵入を防ぐ目的があります。
 邪気は道路を直進すると言われ、街道を屈曲させ、その直線状に神社や寺を配置します。その神社や寺が邪気を吸収し、集落内に邪気を入れず、繁栄につなげようという人々の想いがあります。
 ただ敵の侵入を防ぐだけではなく、こうした集落への人々の想いを、屈曲箇所を見て考えてみるのも良いでしょう。

妻籠宿の途中、無料休憩所もあります。

お昼ごはんに、蕎麦を食べました。
私は、格子が好きで、建物内から格子越しに外の景色を眺めるのも良いですね。

妻籠宿の名物「五平餅」。2本食べるだけでもお腹いっぱいになります。

長野へ旅行 その2 (旅行記)

先月、長野へ連泊で旅行に行ったときの写真です。
ここでは、奈良井~松本~鹿教湯について載せたいと思います。

奈良井宿は中山道(中仙道)にある宿場町です。
集落全体は伝統的建造物群保存地区として町並保存されています。
そのため、自動販売機も景観に考慮されていました。

いたるところに、手水舎があり、誰でも水を飲むことができます。

ちょっと一工夫でしょうか。
お手製の昆虫が、入口の燈籠の上にありました。

松本城に行ったときは、少し小雨が降っていました。
夜はライトアップしており、昼間とは違う印象を受けました。

松本城の天守閣です。
傾いたものを改修し、現在の姿になりました。全国的にも数少ない、現存する天守です。
ちなみに、天守とは、主に倉庫として使用されたものです。居住性を持った天守はとても少なく、むしろ兵糧や武器などを保管する場所として使用されていました。

上高地に行ったら、曇り空で山々がよく見えませんでした。
大正池も、もはや池ではなく、川になりつつなっています。

有名な河童橋も多くの観光客でにぎわっていました。
特に、中国人観光客は多かったです。

鹿教湯温泉に宿泊しましたが、近くの文殊堂という建物に行きました。
建物は古く、歴史を感じました。

鬼瓦の鬼の面も、迫力があります。
邪気は、妻側から入り込むと言われ、邪気を祓うために鬼瓦を置きます。

2010年7月3日土曜日

7月3日 赤塚の小路と北国街道

 赤塚は、江戸時代、新潟から弥彦の中間地点の主要都市として栄えた「在郷町」です。
「在郷町」は、宿場機能を持ち、一見すると農村にも見える集落で、商工業が発展し、労働者も居住していました。
 戦国時代の城下町が、江戸時代に農村集落へと変貌したものが、「在郷町」として形成される例が多く、赤塚も同様の形態だと思われます。

赤塚の集落中央には、背骨のように北国街道・北陸道が通っていました。
その街道を軸に、小路が存在していました。
 その中で「権現小路」は、現在も呼ばれていますが、他にもあるのでは?と思い、調べてみましたら、明治時代の資料から、上の図のような小路名がわかりました。

 この図は、太線が北国街道・北陸道、楕円が村の名前、潟の名前などが描かれた絵図をなぞったものです。江戸中期から後期の絵図と思います。
 街道の形状が割と詳しく描かれています。赤塚の周辺には、たくさんの潟がありました。新川が開通すると、これらの潟は排水され、新田開発が行われました。

2010年5月25日火曜日

5月22日 東京・池袋 巣鴨プリズン跡(旅行記)

池袋にある公園に行って来ました。
かつて、ここには「巣鴨プリズン」と呼ばれた施設がありました。
 巣鴨プリズンの敷地には現在、東池袋中央公園(写真)、サンシャインシティ文化会館、サンシャイン60、サンシャインシティプリンスホテル、サンシャインシティ、ワールドインポートマート、サンシャイン国際水族館があります。

 通称・巣鴨プリズンは、「巣鴨拘置所」であり、現在の東京拘置所の前身です。1944年に、ゾルゲ事件の主犯:リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実の死刑が執行されました。
 また、他に、共産主義者の思想犯、反戦運動に関わった宗教家なども拘置されていました。
 
 終戦直後、GHQが中心となって「極東国際軍事裁判(東京裁判)」の被告とされた、戦争犯罪人(戦犯)容疑者(A級・B級)が収容され、判決後は、東條英機首相ら7名を含む戦犯の死刑(絞首刑)が行われた場所です。(東條英機、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、武藤章、松井石根、広田広毅の7名)

 東池袋中央公園の一角には、平和の石碑があるだけで、当時の面影を知ることはできません。
今では敷地内には、高層ビルが立ち並び、この日も若者をはじめとした多くの人々の憩いの場として利用されていました。

5月22日 東京・靖国神社へ (旅行記です)

東京・九段下にある靖国神社に行きました。
靖国神社は、江戸城の田安門のすぐ北にあり、日本武道館とも近い距離にあります。
靖国神社の入口にある大鳥居は、日本一。弥彦の大鳥居は日本で3番目です。

  靖国神社の「靖国」とは、「国を靖んずる(安らかにする)」という意味、「祖国を平安にする」、「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
 起源は、明治2年(1869)6月29日に建てられた「東京招魂社」にさかのぼります。当時、幕末の騒乱や戊辰戦争といった近代国家建設のために尽力した多くの方々の尊い命が失われてしまいました。
 そこで、明治天皇は、国家のために一命を捧げた方々の御霊(みたま)を英霊(えいれい)として慰め、この事績を後世に伝えようと、この建物が建てられました。
 明治12年(1879)に「靖国神社」と改称されました。
 明治天皇がお詠みになられた「我が国の 為をつくせる 人々の 名もむさし野に とむる玉かき」のお言葉からも、靖国神社の本当の重要性を知ることができます。
 しかし、残念ながら、この本当の意味や重要性を知っている国民、外国人は少ないというのが現状です。
大村益次郎は、近代日本陸軍の創設者です。
オデコが広い方で有名ですね。

「神門」は、昭和9年(1934)に建てられたものです。門にある菊花紋章は、直径1.5m。
手前の大手水舎(おおちょうずしゃ)で、手と口を清めます。
手水(ちょうず)で清める作法は、両手を清め、口を清め、最後に柄杓(ひしゃく)の柄(え)を清めます。茶道と同じ作法ですね。

 「拝殿」は、一般の方々が自由に参拝する場所で、お賽銭箱があります。明治34年(1901)に建てられました。

 「拝殿」の奥には、神霊が鎮まる「本殿」があります。現在の本殿は、明治5年(1872)に建てられ、昭和61年(1986)から3年をかけて解体修理され、当時の姿のまま建替えられました。
 普段の参拝は、「拝殿」のみですが、玉串料を納めれば「本殿」の参拝・お払いができ、お神酒をいただくことができます。私も、本殿にて参拝・お払いし、お神酒をいただきました。
 
 私のほかに、4名の方が一緒に参拝しましたが、その中で3名1組で香川から来られた人がいました。参拝を終え、「こうして会えたのも何かのご縁、一期一会」と、お話をお伺いしたところ、お婆さまの旦那さまが特攻隊だったとか。
 靖国神社には、幕末の人も祀られ、坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作、橋本左内も祀られています。
 また、従軍看護婦や女学生、学徒動員で軍需工場で亡くなられた学徒、文官、民間の方々も含まれています。
 シベリヤ抑留中に死亡した軍人・軍属、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々も同様に祀られています。一律平等に祀られているのです。
 もちろん、新潟の長岡出身の山本五十六さんも祀られています。
 
 一律平等に祀られているのは、靖国神社の目的である「国家のために一命を捧げられたこれらの人々の霊を慰め、この事績を後世に伝える」ことにあるからです。
 
 日本のために命を捧げられた方々がいたからこそ、今の日本があり、私たちがいるのだと思うと、こうした方々への尊敬と、感謝の念を抱きました。本殿では、英霊に対し感謝の黙祷をしました。
 境内にある「遊就館」には、靖国神社に関係する品々が多く展示されています。
 明治・大正・昭和天皇様が着用になられた軍服の実物も展示され、特攻や戦争で亡くなられ靖国神社に英霊として合祀されている方々の写真や遺品・遺書をみることもできます。
 
 かつて、戦時中に「靖国神社でまた会おう」と、戦友と交わしたように、遺族も靖国神社に行けば会えるという意味もあり、先祖の事績を知ることができる場所でもあります。
 館内に展示されているものには、戦艦「三笠」や戦艦「武蔵」・「大和」の主砲の玉、軍服、銃、大砲、戦闘機、回天などといったものがあります。 戦艦「武蔵」・「大和」の玉はやっぱり大きいですね(世界一です)。
 遊就館のメインフロアには、零式艦上戦闘機五二形 三菱製があります。通称、零戦と呼ばれているものです。

 零式艦上戦闘機は、当時、アメリカ軍にとって脅威の戦闘機でした。しかし、軽量化により燃料タンクの防弾がされてなく、一撃を受けると火を噴きます。また、機体を軽量化したため、高速の急降下攻撃ができないという問題もあり、アメリカ軍は零戦に背後を取られた場合、急降下で逃げれば、零戦は追ってこれないという作戦により、形勢は逆転しました。

館内には、陸軍・海軍の品々があり、写真は陸軍が使用した大砲です。

館内には機関車もあります。
昭和は激動の時代でしたが、一方で良い時代でもありました(一応、私も昭和生まれですが)。
 
また今度、靖国神社に行きたいですね。一緒になった香川から来られた方も「ここにくると何だかホッとしますよね。」と言われましたが、「ここに来れば会えるんだ」という気持ちがあると感じました。