2010年7月3日土曜日

7月3日 赤塚の小路と北国街道

 赤塚は、江戸時代、新潟から弥彦の中間地点の主要都市として栄えた「在郷町」です。
「在郷町」は、宿場機能を持ち、一見すると農村にも見える集落で、商工業が発展し、労働者も居住していました。
 戦国時代の城下町が、江戸時代に農村集落へと変貌したものが、「在郷町」として形成される例が多く、赤塚も同様の形態だと思われます。

赤塚の集落中央には、背骨のように北国街道・北陸道が通っていました。
その街道を軸に、小路が存在していました。
 その中で「権現小路」は、現在も呼ばれていますが、他にもあるのでは?と思い、調べてみましたら、明治時代の資料から、上の図のような小路名がわかりました。

 この図は、太線が北国街道・北陸道、楕円が村の名前、潟の名前などが描かれた絵図をなぞったものです。江戸中期から後期の絵図と思います。
 街道の形状が割と詳しく描かれています。赤塚の周辺には、たくさんの潟がありました。新川が開通すると、これらの潟は排水され、新田開発が行われました。

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