2011年9月13日火曜日

9月12日 北陸道(北国街道)をちょこっとドライブ

弥彦から新潟までの区間の北陸道(北国街道)を、ちょこっとドライブしに行きました。
 北陸道(北国街道)に沿って杉並木が並んでいます。道は、車1台分くらいの幅で、坂道となっています。


杉並木の中には、大きな杉もありました。


♪この~木なんの木、木になるスギ~♪、と一本大きなスギの木が。


坂道を下り、弥彦へと向かいました。


 その先は弥彦神社の朱色の鳥居がありますが、北陸道(北国街道)は、そこまで行かず、「木戸坂」と呼ばれるところで曲がります。弥彦神社近くの駐車場に車を止め、トコトコと歩いてまわりました。


木戸坂には、古い民家もあり、北陸道(北国街道)らしい風情も残されています。




木戸坂は、上の写真では右折したところにあります。
 こうした道の屈曲は、ひとつは敵の侵入を防ぐためという理由と、もう1つ重要なのは「邪気」、すなわち魔物を集落に入れないようにするということです。
 邪気は道を直進すると考えられていたので、屈曲させ、神社やお寺の力で魔力を吸収するという手法が取り込まれ、「山あて」と呼ばれる手法です。城下町や在郷町といった大きな集落に使われたまちづくりの手法です。


 途中、「火之宮小路」と呼ばれる小路がありました。明治5年の弥彦の絵図(『弥彦神領史』にある)を見ると、この小路から弥彦神社側(写真右手)は「社中」とあり、北陸道(北国街道)に木戸が設けられ、その先は弥彦神社の社中でした。この小路は、「社中」と、弥彦集落の境界にあった小路です。


「火之宮小路」の前を横切り、弥彦神社の角に向かって北陸道(北国街道)はありました。


上の写真は、弥彦神社の角。信号の向こうは石瀬、岩室と続く北陸道(北国街道)でした。


 本当なら、石瀬、岩室、樋曽、福井、平沢と進むのですが、道も狭かったり、一方通行があったりするので、一路県道から、伏部集落へと入りました。上の写真は、伏部集落の道標(みちしるべ)です。


道標には、「右ハやひこ道」と刻まれています。


伏部集落と稲島集落の中間付近に、庚申塔がありました。文化14年(1817年)に建立されたものです。


この先、稲島集落へと向かう途中、角田山稲島登山口があります。


 稲島集落から布目集落へと向かう途中、稲島集落の外れには、江戸時代の北陸道(北国街道)の道が残され、その脇をアスファルトの道が通っています。


 その先、坂道を下りきると、広い道路にでます。稲島集落入口の坂道の始まりの場所にある小屋の右側が当時の道でした。


 稲島集落から布目集落へと向かう途中の田んぼ道は、北陸道(北国街道)の風情を感じることができます。この道と、上堰潟(うわせきがた)の間には、「長島城」という中世の城があり、現在でも地名として「タテ」という名前が残されています。


稲島集落から布目集落へと入る手前に、庚申塔と石塔群があります。
石塔に向かって、「すみません、写真を撮らせてください」と言って写真を撮りました。


布目集落に入ると、T字路にぶつかります。曲がると、現在の県道と合流します。
江戸時代、布目集落より仁箇集落、その先は田んぼ道を経て西汰上集落を通って西川沿いに延びる「北陸脇道(西川通り)」が続いていました。


赤塚、内野を経て、西川沿いに北陸道がありました。明治11年の明治天皇北陸東海御巡幸に併せて、内野の「團九郎(だんくろう)」と呼ばれる、砂丘の山と西川との距離が狭い部分に道を通し、以降、北陸道となりました。それまでは、江戸時代、上の写真の通りは「北陸脇道(西川通り)」と呼ばれ、槇尾、高山、笠木、中野小屋を経て、曽根、巻へとつながっていました。
一方、新潟方面へは、上の写真、小針から、平島、團九郎、金鉢山、関屋本村と続き、そこで北陸道(北国街道)と合流しました。


西川沿いには、明治11年の明治天皇北陸東海御巡幸で、明治天皇が御休息された渡部邸跡に石碑があります。


今は、石碑しか残されていませんが、ここで明治天皇は渡部邸でご休憩され、ここは御小憩所となりました。


新潟高校前を通る道が北陸道(北国街道)でした。(上の写真)

9月12日 弥彦神社

 「越後一ノ宮」の呼ばれるように、新潟県内を代表する観光地のひとつとなっている弥彦神社。祭られている神様は女性です。
たまたま、この日は鳥居の塗装塗り作業中だったようで、朱色の鳥居をくぐることはできませんでした。


 現在の弥彦神社の社殿(本殿)は、大正5年に現在の位置に建てられたものです。明治45年3月の弥彦大化で本殿は類焼してしまいました。(上の写真、大正2年→大正5年に訂正です。ごめんなさい。)


消失前の社殿は、朱色の鳥居をくぐり、その先の石畳の参道を進んだ延長線上にありました。


旧社殿(本殿)があった所は、現在、「旧本殿跡」という形になっていて、その先には宝物殿があります。


旧本殿跡には、案内看板がありました。
 明治天皇北陸東海御巡幸のことが記載された『明治天皇聖蹟誌』(新潟県立図書館所蔵)の本の中に、消失前の旧本殿の写真があります。旧本殿の前に、建物がありました。


旧社殿(旧本殿)跡は、当時の本殿の位置や大きさを伺うことができました。


旧本殿脇には、弥彦神社の御神木があります。


この日、気温が高く、暑いせいか、弥彦神社の鹿さんたちは水にどっぷりと浸かっていました。


   弥彦神社近くには、戦国時代まで使われていた桔梗城(ききょうじょう)という城があった「城山公園」もあります。

2011年9月5日月曜日

9月4日 赤塚消防団の大会

西日本を中心に暴風雨の被害がある一方、新潟はフェーン現象で気温が上がりました。
赤塚消防団の大会当日も、気温が高く、風も強かったです。
  日ごろから訓練を重ね、消防団活動に熱心な赤塚分団。赤塚から、木山、中権寺、四ツ郷屋地区などから、約200名の消防団員が大会に参加されました。

 国旗掲揚とラッパ隊による「君が代」の演奏も、素晴らしかったです。

 新潟市はもとより、新潟県内で、優勝経験豊富な赤塚分団。赤塚分団の旗には「常勝」の文字が。「優勝」や「必勝」ではなく、常に勝つという意味の「常勝」の文字は、赤塚分団の強さを示しているようにも見えました。
 県大会では、赤塚分団の演習が始まると、県内各地の消防団員がビデオを撮るなど、他の地域の消防団員からも注目を集めるほどの強さ。赤塚の演習を見る目的で来る人が多いそうです。

 「操法(そうほう)」とは、訓練の基本的な器具の操作や動作が国の基準で決められ、火災消火を想定した基本操作の訓練だそうです。最初に、操法が行われ、その後に「放水」が行われました。放水では、一斉にエンジンをかけ、エンジンの音が響き渡る中、放水する速さを競いました。放水シーンは、迫力ありました。

2011年8月28日日曜日

8月28日 ヒシにオニバスに瓢箪?

朝夕の涼風は、心地よく、秋を感じさせます。
でも、日ざしはまだまだ夏が残っています。
 佐潟の湖面に広がるヒシの上には、サギが小魚を狙っているのか、一息休憩しているのか、あちこちに見ることができました。

 ヒシも昨年は10月上旬頃から実が獲れ始めていました。ただ、佐潟のヒシは実の殻が固いので、食べるには一苦労します。

今年のオニバスは、佐潟の下流付近に多く見受けられます。
花は葉っぱの割りに小さく、午前中しか咲かないのだそうです。

余談ですが、今年、わが家ではグリーンカーテンに、地元の農家さんから貰った瓢箪の苗を植えました。
 水やりや、施肥をして、実りの秋を向かえ、中型の瓢箪が1つ(高さ約50cm)、千成瓢箪(せんなりひょうたん)が数個実りました。千成瓢箪はまだこれからたくさん実りそうで、赤ちゃん瓢箪が10個くらい付いていました。

    瓢箪の栽培は始めてなので、加工方法について、知人の瓢箪づくりのプロに聴きながら挑戦したいと
思います。

2011年7月31日日曜日

雨上がりの夏空

昨日、一昨日の大雨とは打って変わって、今日は夏空が広がりました。
気温もすっかり夏の暑さで、佐潟の湖面のヒシも益々元気になってくるかと思います。
昨日・一昨日の大雨で、佐潟の潟舟にもたくさんの雨水が溜まりました。

昨日、写真の真ん中の舟を水をかき出して漕いでみました。今年もたくさんのオニバスがありそうです。

暑さ倍増と共に、セミさんの鳴き声も倍増?

ミンミンと元気よく鳴いています。

2011年6月21日火曜日

6月20日 蓮野・二宮家見学

 今年は、6月26日まで一般公開されているとのことで、一人、蓮野地区にある二宮邸へ見学に行きました。二宮家は聖籠町の歴史にも大きく関わっており、県内有数の「豪農の館」にも数えられています。
  新新バイパス蓮野インターを降り、免許センターの反対方向へ曲がると、蓮野という集落に行きます。その通り沿いにお屋敷がありました。


 さすが、県内有数の「豪農の館」と称されるだけに、立派な海鼠壁(なまこかべ)の土蔵が4棟並んでいました。


 二宮邸の名物が、バラ園だそうです。行ったときはバラも終わりかけで、お花が少ないようでしたが、それでも沢山のバラが咲いていました。


 バラが洗面器に入れられていたのを見て、一度で良いのでお風呂に沢山入れてみたいと思いました。


 二宮家の主屋を含めた建物は、入室できませんでしたが、歴史を感じました。


 建物は、登録有形文化財に登録されています。数年前に、長野県の温泉地で同じ登録有形文化財に登録された旅館に泊まったことあります。歴史的に価値のある建物に対して登録される文化財です。


 主屋の中(玄関)から見ると、奥にある庭園と建物がまるで額縁のように見えました。京都のお寺も同じような風景がありますが、おそらく、部屋の中から見て庭の樹木や燈篭(とうろう)、飛び石などの配置が決められているのかも知れません。



 主屋の縁側に腰掛けてお話をされていた方々もおられました。縁側の機能とは、サザエさんにもあるように、コミュニティの場であり、かつ、外の環境と建物内の環境を繋ぐ中間領域にあたります。日本の文化は素晴らしいですね。


 二宮家の屋敷裏にある弁天潟。100m×200mくらいの潟でした。


 潟も庭園の一部となり、借景(しゃっけい)と呼ばれる庭園様式にも見えました。私これでも、造園関係の資格もあるので、日本庭園も多少勉強していました。


 潟に接して茶室?あるいは書斎のような小さな建物がありました。


 ふと見ると、大きなライギョとカメさんが泳いでいました。カメさんに向かって「おいで、おいで」と指をフリフリしたら、寄ってきました。少し、カメさんと戯(たわむ)れていました。

2011年6月5日日曜日

6月4日 魚沼地域

6月4日、中原邸保存会の研修旅行に参加しました。
魚沼地域の歴史を巡りました。
西福寺開山堂の彫り物は、石川雲蝶の作品で、細かい細工が素晴らしかったです。

写真は、開山堂の正面にあるカラス天狗です。


 石川雲蝶は、絵も得意で、彫り物・絵・コテを得意としていたようで、「越後のミケランジェロ」といわれるほど迫力ありました。雲蝶は幕末から明治初期の人で、江戸の生まれで32歳の時に永林寺に、一生良い酒と鑿(のみ)を提供するという条件で永林寺に入りました。後に、三条へ婿へ行き、酒井姓を名乗っています。


お昼ごはんには、入広瀬の「休み場」という民宿で山の幸をふんだんに堪能できました。


 アユの塩焼きも出ました。私の大好物の1つです。魚沼地域は、アユやマスなどの川魚もあり、山と川の食材の宝庫ですね。


 国指定重要文化財の目黒邸。明治時代は目黒邸の正面は田園が広がっていたことを、当時の写真で伺うことができました。
 萱葺き屋根の規模の大きさは、国内でも5本の指に入るそうで、葺き替え費用は1億円かかったそうです。また、山間部地域の萱葺きの葺き替え作業は、地元村人が総出で参加し手伝う「結」というものが存在します。「結」は、地域のコミュニティにとって大切なものです。これからも「結」が続いて欲しいですね。