また、「赤塚郷土研究会」や「赤塚・中原邸保存会」といった地域の歴史に関して掘り起こしをしている団体もあり、歴史研究には熱心な地域です。
赤塚にある赤塚公会堂には、古い文書があり、慶長11年の「鳥役(とりやく)定之事」の文書(もんじょ)や、江戸時代の検地地帳、明治時代の文書など、たくさんの史料が保管されています。
今後、これらの史料をジワジワとまとめて行きたいな~と思います。
江戸中期に農耕具に鉄器が普及し、その後に佐潟から伊邪那岐神社(現・赤塚神社)間の街道が整備されました(寛延4年に「へっぷり坂」の開通)。
また、乳の潟(ちのがた)は、江戸後期(文政3年~)干拓が始められ、完成した新田を「藤蔵新田」と名づけられ、現在に至っています。 赤塚では、この干拓される前の時の状態から「島」と呼んでいます。確かに、今でもふと見ると、田んぼの真ん中に島があるようにも見えます。
あと、赤塚と中権寺の間には、早潟という大きな潟がありました。早潟は、江戸後期に新田開発され、昭和になってゴミ処分場が造られ、つい最近にはこの付近から古墳跡が発見されています。 ここに古墳が発見されたということから、赤塚の近辺にも古墳があってもおかしくないと思います。縄文時代からの集落跡が発見されているので、その近辺でしょうかね~。
明治中期頃が赤塚の最盛期で、宿駅・赤塚駅としても大いに機能して賑わっていました。
この集落を計画、整備したのは、江戸後期の赤塚の大庄屋・石黒弾右衛門家と、石黒家に次ぐ大地主・中原藤蔵家です。
文献には、文政11年に、中原藤蔵が二宮尊徳のところへ行ったと書かれています。藤蔵は、尊徳から新田開発・集落整備の技術を学び、それを赤塚へ活かそうと石黒家に相談したのでしょう。石黒家が中心となって整備を始めましたが、石黒家が途中で徐々に衰退していったため、替わって中原家が進めて行きました。
そのため、明治初期の赤塚の民間の間取りからは、二宮尊徳の技術を活かしたと思われる間取りや建物が見られ、明治時代の古い写真からは板葺き屋根の立派な家並みを見ることができます。
石黒家の屋敷の隣には、初代赤塚郵便局が建てられました。当時は海鼠壁(なまこかべ)の和風的な建物でしたが、後に2階建ての洋館の郵便局が同じ場所に建てられました。
初代赤塚郵便局長は、石黒茂範(石黒弾右衛門家)で、2代目は中原遠志知でした。 中原遠志知は、2代目の赤塚村村長になっています。新潟市の発行する本には、洋館風の赤塚郵便局の写真が掲載されています。
後に、石黒家屋敷跡には、保育園が建てられました。
大慈寺の近くの家から、江戸中期、悦巌禅師という人が生まれました。
近くの飴屋に、夜な夜な、決まって同じ時間に、とある女性が三文銭を手に飴を買いに来ました。不思議に思った飴屋の人は、その女性の後をついて行くと、中野家の墓地でその女性は消えてしまいました。不思議に思った飴屋の人と村人は、翌朝、墓を掘り起こしたら、女性の姿が見れ、抱きかかえるように赤ん坊がいました。すぐ脇には飴の棒があり、赤ん坊は生きていたので、育てられることとなりました。
その後、この赤ん坊は、大きくなり、僧侶として修行に行き、加賀の前田家の天徳院の大和尚に任命され、名僧として有名になりました。それが悦巌禅師(えつがんぜんじ)です。
赤塚には、江戸時代に最大6つの寺院があったそうです。赤塚は僧侶にとってちょっとしたメッカなのでしょうか。関川村の「大したもん蛇祭り」の主人公でもある僧侶・蔵市は、京都で修行し、故郷の赤塚へ帰ろうと関川に寄ったら大蛇に逢った、という物語に登場します。
大慈寺が明治42年8月1日に消失する前の写真が残されています。
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