2009年12月26日土曜日
2009年12月22日火曜日
12月22日 赤塚の歴史
また、「赤塚郷土研究会」や「赤塚・中原邸保存会」といった地域の歴史に関して掘り起こしをしている団体もあり、歴史研究には熱心な地域です。
赤塚にある赤塚公会堂には、古い文書があり、慶長11年の「鳥役(とりやく)定之事」の文書(もんじょ)や、江戸時代の検地地帳、明治時代の文書など、たくさんの史料が保管されています。
今後、これらの史料をジワジワとまとめて行きたいな~と思います。
江戸中期に農耕具に鉄器が普及し、その後に佐潟から伊邪那岐神社(現・赤塚神社)間の街道が整備されました(寛延4年に「へっぷり坂」の開通)。
また、乳の潟(ちのがた)は、江戸後期(文政3年~)干拓が始められ、完成した新田を「藤蔵新田」と名づけられ、現在に至っています。 赤塚では、この干拓される前の時の状態から「島」と呼んでいます。確かに、今でもふと見ると、田んぼの真ん中に島があるようにも見えます。
あと、赤塚と中権寺の間には、早潟という大きな潟がありました。早潟は、江戸後期に新田開発され、昭和になってゴミ処分場が造られ、つい最近にはこの付近から古墳跡が発見されています。 ここに古墳が発見されたということから、赤塚の近辺にも古墳があってもおかしくないと思います。縄文時代からの集落跡が発見されているので、その近辺でしょうかね~。
明治中期頃が赤塚の最盛期で、宿駅・赤塚駅としても大いに機能して賑わっていました。
この集落を計画、整備したのは、江戸後期の赤塚の大庄屋・石黒弾右衛門家と、石黒家に次ぐ大地主・中原藤蔵家です。
文献には、文政11年に、中原藤蔵が二宮尊徳のところへ行ったと書かれています。藤蔵は、尊徳から新田開発・集落整備の技術を学び、それを赤塚へ活かそうと石黒家に相談したのでしょう。石黒家が中心となって整備を始めましたが、石黒家が途中で徐々に衰退していったため、替わって中原家が進めて行きました。
そのため、明治初期の赤塚の民間の間取りからは、二宮尊徳の技術を活かしたと思われる間取りや建物が見られ、明治時代の古い写真からは板葺き屋根の立派な家並みを見ることができます。
石黒家の屋敷の隣には、初代赤塚郵便局が建てられました。当時は海鼠壁(なまこかべ)の和風的な建物でしたが、後に2階建ての洋館の郵便局が同じ場所に建てられました。
初代赤塚郵便局長は、石黒茂範(石黒弾右衛門家)で、2代目は中原遠志知でした。 中原遠志知は、2代目の赤塚村村長になっています。新潟市の発行する本には、洋館風の赤塚郵便局の写真が掲載されています。
後に、石黒家屋敷跡には、保育園が建てられました。
大慈寺の近くの家から、江戸中期、悦巌禅師という人が生まれました。
近くの飴屋に、夜な夜な、決まって同じ時間に、とある女性が三文銭を手に飴を買いに来ました。不思議に思った飴屋の人は、その女性の後をついて行くと、中野家の墓地でその女性は消えてしまいました。不思議に思った飴屋の人と村人は、翌朝、墓を掘り起こしたら、女性の姿が見れ、抱きかかえるように赤ん坊がいました。すぐ脇には飴の棒があり、赤ん坊は生きていたので、育てられることとなりました。
その後、この赤ん坊は、大きくなり、僧侶として修行に行き、加賀の前田家の天徳院の大和尚に任命され、名僧として有名になりました。それが悦巌禅師(えつがんぜんじ)です。
赤塚には、江戸時代に最大6つの寺院があったそうです。赤塚は僧侶にとってちょっとしたメッカなのでしょうか。関川村の「大したもん蛇祭り」の主人公でもある僧侶・蔵市は、京都で修行し、故郷の赤塚へ帰ろうと関川に寄ったら大蛇に逢った、という物語に登場します。
大慈寺が明治42年8月1日に消失する前の写真が残されています。
2009年12月19日土曜日
12月16日 大雪
2009年12月16日水曜日
12月12日 大内宿と日光に行ってきました(大内宿版)
本ブログのタイトルと違う地域になりますが、旅行記ということで掲載させていただきます。
私の車のナビは、山道をナビし、クネクネ道を進みました。
峠を越えると、大内ダムが見えてきました。芝生の傾斜はちょっと圧巻でした。
家の前には、干し柿が下げられ、風情を感じられました。
当時、道路を作る際、山の山頂と山頂を線で繋いだ直線状に道路を設けたり、神社と神社を繋いだ直線状に設けたりという形で計画されました。
これは、集落内に邪気が入り込まないようにするためのものです。
12月12日 大内宿と日光に行ってきました(日光版)
初の東照宮参詣で、たくさん写真も撮りました。
駐車場はどこか、迷いに迷ってやっとのことで駐車でき、いざ見学。
たくさんの人が訪れ、若い人たちから外人さんまで。
国際的に認められた日本の宝ですね。
煌びやかな装飾が。
五重塔は、奈良時代からそのスタイルをほとんど変わっていません。
地震対策に、継ぎ手・仕口(しくち)に余裕を持たせ、その空洞で地震の力を抑えます。
有名な三猿「見猿(みざる)」、「聞か猿(きかざる)」、「言わ猿(いわざる)」の彫物です。
当時、江戸は地上の中心であり、その鬼門除けに日光東照宮が建てられました。東照宮は、宇宙の中心を示しています。
2009年12月15日火曜日
12月15日 やっと冬らしく
2009年12月4日金曜日
12月4日 小屋の囲炉裏にブロック囲い
アクセス数なのでしょうか。とりあえず、484,000回も私のブログをご覧頂いていることに驚きました。今後もよろしくお願いします。
赤塚地域にあるものを活かして、小屋を造っています。
この写真では、囲炉裏部分をただ繰りぬいた感じです。
今あるものと、地域を活かす。ちょっとした地産地消といった感じでしょうか。地域を活用する「地活」というのも大切だと思います。
今日の作業は、コンクリートブロック(単価:118円)を10個買って、それを囲炉裏にはめ込むというもの。
きっちりの寸法で計算して繰り抜いたので、ちょっとでもずれると大変。最後の1つを無理やり押し込み、なんとか全てをはめ込むことができました。
炉縁には竹を被せようと思っています。
2009年12月1日火曜日
11月27、28日 佐渡へ
新潟港の佐渡汽船のりばの近くには、海上保安庁の巡視船が停泊していました。最近の船は良くわかりませんが、軍艦マニアの私には、興味津々でした。
巡視船なので、主砲部分はやや小ぶりな印象があります。