2011年11月9日水曜日

11月9日 佐潟のカモちゃんたち

今日は、風が冷たく、ストーブやお風呂が恋しい季節となりました。
今夜はゆっくりと、お風呂に浸かりたいです。
カモちゃんたちも、並んで休憩中です。
時々、カモちゃんたちは、羽をバタバタして水浴びもしています。
カモちゃんが舟の縁に止まろうとする様子は、なんとも可愛らしいです。
ハクチョウの飛び立とうというシーンの写真も、ちょっと撮ることができて、うれしいです。

もっと写真の腕を磨かなくては・・・。

11月6日 赤塚郷土研究会30周年記念行事

11月6日、午後1時から行なわれました、赤塚郷土研究会主催の行事に参加しました。
北国街道バスツアーでは、中権寺~佐潟の史跡めぐりをしました。
 バスツアーでは、雨降りの中、論地池(尼池、ドンチ池)と、大山祇社、佐潟公園駐車場脇の道標(みちしるべ)を見学しました。

バスツアー後は、「北陸道(北国街道)について」と「赤塚の歴史について」の講演会が行なわれ、地域内外から多くの方々が講演を聞かれていました。

11月8日 フナの甘露煮づくり

この日、コブナを甘露煮にするため、家で調理しました。
まだ生きているのを、かわいそうですが、ペットボトルのキャップで鱗を取り、軽く焼き目を入れます。
焦げ目が付くかつかないかくらいの焼き加減でやりました。

これを、鍋で煮汁に入れて、コトコトと長時間煮ます。

煮汁は、砂糖300~350g、醤油240cc~300cc、みりん100cc、はちみつ100cc、調味酒、酢を入れます。臭みを取るのに、生の生姜を刻み入れます。骨を軟らかくするのに、酢も入れます。

お水も、コップに4~5杯入れます。4時間~5時間煮込みます。

完成した甘露煮は、たくさんできたので、いろんな人にお裾分けしました。

早速、完成した甘露煮で御飯を食べました。

醤油の塩気と、甘みが、御飯のおかずにピッタリでした。お酒にも合いそうです。

2011年11月2日水曜日

11月2日 ハクチョウと佐潟の空

 佐潟のハクチョウも、580羽くらいが飛来しています。
 佐潟(下潟)の奥のほうにハクチョウさんがいます。
 朝、ハクチョウは佐潟を飛び立ちます。上の写真を撮った日の朝は、ハクチョウの白い色がハッキリと見えました。

 佐潟は、夕暮れの景色もきれいです。
 夕日が日本海に沈むとき、佐潟の湖面に夕日の光が反射して、そこに鳥や草の陰があって、とても良い感じです。

最近は特に、夕日とハクチョウのねぐら入りを見ようと、たくさんの人が見に来られます。
写真を撮りに来る方も大勢いらっしゃいます。

ハクチョウの陰も、景色の一部となります。

上の写真を撮った日は、三日月があり、月もいっしょに撮ってみました。

夕方、次々とハクチョウが佐潟に戻ってきます。ハクチョウの中には違う鳥も混じっていたりもします。胸あたりにヒシの実をくっつけて飛んでいるハクチョウやヒシクイなども、たまに見ることができるでしょう。

2011年10月23日日曜日

10月22日 佐潟の白鳥と夕日

 この日のあとある時間、なにやら一斉にハクチョウさんたちが飛び立ちました。慌ててカメラを取りに行き、写真をパシャリ。
何百ものハクチョウさんが一斉に飛び立つ様子は、初めて見ました。

どんどんハクチョウさんたちが飛び立っていきました。

 夕日もきれいで、カモちゃんが影になって、とても雰囲気が良かったです。今朝(23日)は、ハクチョウさんも、田んぼにいました。

2011年10月22日土曜日

10月22日 赤塚の北陸道(北国街道)

 お知らせですが、11月6日(日)、メイワサンピアを会場に、赤塚地域の北陸道(北国街道)バスツアーと講演会が行なわれます。13時~15時30分 バスツアー。15時半~17時 講演会。17時~懇親会となっています。
 講演会では、「北陸道(北国街道)と赤塚 ~新潟湊―弥彦区間の赤塚~」と、「赤塚の歴史について」というテーマとなっています。
 ↑江戸中期までの北陸道(浜通り)は、赤塚の神明社近くを通り、四ツ郷屋へと続いていました。


↑下野地の墓地入口には、馬頭観音と、八手観音があります。


↑ 「ドンチ池」の名前と、カッパ伝説で有名な論地池(尼池)。砂丘湖の1つで、平安時代、中宮寺という寺院がこのほとりにありました。


↑ 江戸中期からの北陸道(中通り)、円通庵の前に、出羽三山の碑と庚申塔があります。




↑  赤塚連絡所前から江戸中期の北陸道(中通り)が続いています。


↑ 平安・鎌倉時代頃までの北陸道は、砂丘の縁を通っていました。山崎のお宮の脇にある道は、その時代の北陸道です。


↑  山崎の墓地には、湯殿山大権現と刻まれた石碑があります。


 ↑  江戸初期まで赤塚の中心的な集落は、大藪というところにありました。大藪には、村上義清の墓とも供養塔とも伝わる「義清塚」がありました。


↑ 江戸時代、赤塚を中心に、最大17ヶ村の村々を治めていた石黒家屋敷跡。赤塚小学校の入口脇にあります。ここだけ、石垣が築かれ、石黒家の権威を伺えます。

2011年9月13日火曜日

9月12日 北陸道(北国街道)をちょこっとドライブ

弥彦から新潟までの区間の北陸道(北国街道)を、ちょこっとドライブしに行きました。
 北陸道(北国街道)に沿って杉並木が並んでいます。道は、車1台分くらいの幅で、坂道となっています。


杉並木の中には、大きな杉もありました。


♪この~木なんの木、木になるスギ~♪、と一本大きなスギの木が。


坂道を下り、弥彦へと向かいました。


 その先は弥彦神社の朱色の鳥居がありますが、北陸道(北国街道)は、そこまで行かず、「木戸坂」と呼ばれるところで曲がります。弥彦神社近くの駐車場に車を止め、トコトコと歩いてまわりました。


木戸坂には、古い民家もあり、北陸道(北国街道)らしい風情も残されています。




木戸坂は、上の写真では右折したところにあります。
 こうした道の屈曲は、ひとつは敵の侵入を防ぐためという理由と、もう1つ重要なのは「邪気」、すなわち魔物を集落に入れないようにするということです。
 邪気は道を直進すると考えられていたので、屈曲させ、神社やお寺の力で魔力を吸収するという手法が取り込まれ、「山あて」と呼ばれる手法です。城下町や在郷町といった大きな集落に使われたまちづくりの手法です。


 途中、「火之宮小路」と呼ばれる小路がありました。明治5年の弥彦の絵図(『弥彦神領史』にある)を見ると、この小路から弥彦神社側(写真右手)は「社中」とあり、北陸道(北国街道)に木戸が設けられ、その先は弥彦神社の社中でした。この小路は、「社中」と、弥彦集落の境界にあった小路です。


「火之宮小路」の前を横切り、弥彦神社の角に向かって北陸道(北国街道)はありました。


上の写真は、弥彦神社の角。信号の向こうは石瀬、岩室と続く北陸道(北国街道)でした。


 本当なら、石瀬、岩室、樋曽、福井、平沢と進むのですが、道も狭かったり、一方通行があったりするので、一路県道から、伏部集落へと入りました。上の写真は、伏部集落の道標(みちしるべ)です。


道標には、「右ハやひこ道」と刻まれています。


伏部集落と稲島集落の中間付近に、庚申塔がありました。文化14年(1817年)に建立されたものです。


この先、稲島集落へと向かう途中、角田山稲島登山口があります。


 稲島集落から布目集落へと向かう途中、稲島集落の外れには、江戸時代の北陸道(北国街道)の道が残され、その脇をアスファルトの道が通っています。


 その先、坂道を下りきると、広い道路にでます。稲島集落入口の坂道の始まりの場所にある小屋の右側が当時の道でした。


 稲島集落から布目集落へと向かう途中の田んぼ道は、北陸道(北国街道)の風情を感じることができます。この道と、上堰潟(うわせきがた)の間には、「長島城」という中世の城があり、現在でも地名として「タテ」という名前が残されています。


稲島集落から布目集落へと入る手前に、庚申塔と石塔群があります。
石塔に向かって、「すみません、写真を撮らせてください」と言って写真を撮りました。


布目集落に入ると、T字路にぶつかります。曲がると、現在の県道と合流します。
江戸時代、布目集落より仁箇集落、その先は田んぼ道を経て西汰上集落を通って西川沿いに延びる「北陸脇道(西川通り)」が続いていました。


赤塚、内野を経て、西川沿いに北陸道がありました。明治11年の明治天皇北陸東海御巡幸に併せて、内野の「團九郎(だんくろう)」と呼ばれる、砂丘の山と西川との距離が狭い部分に道を通し、以降、北陸道となりました。それまでは、江戸時代、上の写真の通りは「北陸脇道(西川通り)」と呼ばれ、槇尾、高山、笠木、中野小屋を経て、曽根、巻へとつながっていました。
一方、新潟方面へは、上の写真、小針から、平島、團九郎、金鉢山、関屋本村と続き、そこで北陸道(北国街道)と合流しました。


西川沿いには、明治11年の明治天皇北陸東海御巡幸で、明治天皇が御休息された渡部邸跡に石碑があります。


今は、石碑しか残されていませんが、ここで明治天皇は渡部邸でご休憩され、ここは御小憩所となりました。


新潟高校前を通る道が北陸道(北国街道)でした。(上の写真)