





こうした道の屈曲は、ひとつは敵の侵入を防ぐためという理由と、もう1つ重要なのは「邪気」、すなわち魔物を集落に入れないようにするということです。
邪気は道を直進すると考えられていたので、屈曲させ、神社やお寺の力で魔力を吸収するという手法が取り込まれ、「山あて」と呼ばれる手法です。城下町や在郷町といった大きな集落に使われたまちづくりの手法です。





この先、稲島集落へと向かう途中、角田山稲島登山口があります。
稲島集落から布目集落へと向かう途中、稲島集落の外れには、江戸時代の北陸道(北国街道)の道が残され、その脇をアスファルトの道が通っています。
その先、坂道を下りきると、広い道路にでます。稲島集落入口の坂道の始まりの場所にある小屋の右側が当時の道でした。
稲島集落から布目集落へと向かう途中の田んぼ道は、北陸道(北国街道)の風情を感じることができます。この道と、上堰潟(うわせきがた)の間には、「長島城」という中世の城があり、現在でも地名として「タテ」という名前が残されています。
稲島集落から布目集落へと入る手前に、庚申塔と石塔群があります。
石塔に向かって、「すみません、写真を撮らせてください」と言って写真を撮りました。
布目集落に入ると、T字路にぶつかります。曲がると、現在の県道と合流します。
江戸時代、布目集落より仁箇集落、その先は田んぼ道を経て西汰上集落を通って西川沿いに延びる「北陸脇道(西川通り)」が続いていました。




石塔に向かって、「すみません、写真を撮らせてください」と言って写真を撮りました。

江戸時代、布目集落より仁箇集落、その先は田んぼ道を経て西汰上集落を通って西川沿いに延びる「北陸脇道(西川通り)」が続いていました。