2010年2月28日日曜日

2月25日 ぽかぽか陽気

2、3日間くらい、ぽかぽか陽気で、外にいても気持ち良い日でした。
ちょっとの作業でも汗がにじんできました。
すっかり平地の雪も溶け、水面に反射する日光はまぶしかったです。

カモちゃんも気持ち良い日光で、元気よく遊んでいました。
もう、すっかり春の陽気ですね。
この陽気で、だいぶ佐潟のハクチョウさんは北へ帰りました。
今では、数十羽が田んぼで御飯を食べているのが見れるくらい。
南にいるハクチョウさんが、ちょこっと休憩で佐潟に来るくらいでしょうか。
そろそろ車の冬タイヤも交換でしょうかね?

2010年2月11日木曜日

2月2日 福島潟、瓢湖、伊藤邸

この日、「佐潟村」の皆さんとご一緒に、福島潟、村杉、瓢湖、北方文化博物館(旧伊藤文吉邸)に行きました。
大きな建物の「ビュー福島潟」から、福島潟や越後平野の眺望を楽しみました。

天気も徐々に晴れ、山々もきれいに見ることができました。

瓢湖も、ラムサール条約に登録されました。
何年ぶりでしょうか、どんな感じになっているか楽しみでした。

うっひゃー。
鳥さんがウジャウジャ。ハクチョウさんより、カモさんがたくさんいました。

ハクチョウさんが私たちに近づいて挨拶をしてくれました。
灰色の羽のハクチョウさんは若いハクチョウさんです。
普段はハクチョウさんは、朝飛立って田んぼに行き、田んぼで餌を食べています。そして夕方に湖面に戻ってきます。ハクチョウさんを見たい方は、朝か夕方に湖面に行かれると見れますよ。

新潟県内で最もたくさん土地を所有していた伊藤文吉の屋敷(北方文化博物館)に行ってきました。
午前中の陽気が、この頃には徐々に薄暗くなり、寒かったです。

村上地域~阿賀野川周辺の地域では、鮭をこのように干しています。
特に、村上では、かつて村上藩が鮭の養殖・放流に熱心に取り組み、乾燥の際には、お腹を完全に開いては干しませんでした。これは、武士が切腹を嫌ったということから、一部お腹を残して干したという伝統が今も続いています。
 
・・・・
2月5日から2月8日、新潟市内は大雪で大騒ぎでした。
特に7日は、大吹雪で、所々の道路では車が田んぼに脱輪していました。
外に出るにも出れないので、家で待機していました。

2010年1月27日水曜日

1月24日 手作りの茶道具

この日、「佐潟村」におじゃましました。
赤塚の人で茶道具を作っている人から、自慢の品々を見せていただきました。
これは茶筅(ちゃせん)を置くためのものらしいです。
一つ一つ、手作りだそうです。

茶杓(ちゃしゃく)入れと茶杓です。
囲炉裏ですすけた竹で作ったそうで、材料を見つけるのに苦労したそうです。
茶杓は、枝が付いている方を使い、外側へ曲げるそうです。

この日、見せていただいた茶道具の品々です。
まさに職人芸って感じで感動しました。

2010年1月15日金曜日

1月6日 柏崎に行ってきました。

明けましておめでとうございます。

この日、学生の頃にお世話になった人に、新年のご挨拶に行きました。

柏崎へ行く途中、野積(のずみ)にサイノカミの骨組みがあったので、ちょっと写真を撮りました。
柏崎にいた頃、鵜川地区のサイノカミを、骨組みの設営から燃やすまでの間を見学させていただきました。

上条(じょうじょう)という集落にあるコミュニティセンターに、ご挨拶に行きました。
上条は、中世、上条上杉家の城(上条城)がありました。全国的には、上条弥五郎政繁が治めていました。
写真は、上条城の支城である山城:黒滝城です。他に、古町番城という山城もあります。
上条弥五郎は、直江兼続によって牢獄に入れられたそうです。古参の上条弥五郎が煙たい存在だったのか、政治的理由により牢獄へ入れられたのかもしれません。後に、上条弥五郎は、豊臣秀吉に仕えています。

2009年12月26日土曜日

12月26日 小屋

今日は久しぶりに小屋の作業。
雪や風の心配もしていましたが、雪や風にも耐えていました。
囲炉裏に炭を入れ、暖をとりました。
遠赤外線効果でポカポカです。

頂き物の上敷きを床に敷きました。
これでごろ寝もできますね。
ちょっと煙がいぶったいですが・・・。

買ってきたランプに油をつめ、点灯してみました。明るかったですが、もう1個いるかもです・・・。

ほのかなランプの灯りは良いですね~。

2009年12月22日火曜日

12月22日 赤塚の歴史

 赤塚には、たくさんの古い資料が保管されています。
 また、「赤塚郷土研究会」や「赤塚・中原邸保存会」といった地域の歴史に関して掘り起こしをしている団体もあり、歴史研究には熱心な地域です。
 

 赤塚にある赤塚公会堂には、古い文書があり、慶長11年の「鳥役(とりやく)定之事」の文書(もんじょ)や、江戸時代の検地地帳、明治時代の文書など、たくさんの史料が保管されています。
 今後、これらの史料をジワジワとまとめて行きたいな~と思います。


 江戸中期に農耕具に鉄器が普及し、その後に佐潟から伊邪那岐神社(現・赤塚神社)間の街道が整備されました(寛延4年に「へっぷり坂」の開通)。
 また、乳の潟(ちのがた)は、江戸後期(文政3年~)干拓が始められ、完成した新田を「藤蔵新田」と名づけられ、現在に至っています。 赤塚では、この干拓される前の時の状態から「島」と呼んでいます。確かに、今でもふと見ると、田んぼの真ん中に島があるようにも見えます。
 あと、赤塚と中権寺の間には、早潟という大きな潟がありました。早潟は、江戸後期に新田開発され、昭和になってゴミ処分場が造られ、つい最近にはこの付近から古墳跡が発見されています。 ここに古墳が発見されたということから、赤塚の近辺にも古墳があってもおかしくないと思います。縄文時代からの集落跡が発見されているので、その近辺でしょうかね~。
 
 
 明治中期頃が赤塚の最盛期で、宿駅・赤塚駅としても大いに機能して賑わっていました。
 この集落を計画、整備したのは、江戸後期の赤塚の大庄屋・石黒弾右衛門家と、石黒家に次ぐ大地主・中原藤蔵家です。
 文献には、文政11年に、中原藤蔵が二宮尊徳のところへ行ったと書かれています。藤蔵は、尊徳から新田開発・集落整備の技術を学び、それを赤塚へ活かそうと石黒家に相談したのでしょう。石黒家が中心となって整備を始めましたが、石黒家が途中で徐々に衰退していったため、替わって中原家が進めて行きました。
 そのため、明治初期の赤塚の民間の間取りからは、二宮尊徳の技術を活かしたと思われる間取りや建物が見られ、明治時代の古い写真からは板葺き屋根の立派な家並みを見ることができます。
 

 
 石黒家の屋敷の隣には、初代赤塚郵便局が建てられました。当時は海鼠壁(なまこかべ)の和風的な建物でしたが、後に2階建ての洋館の郵便局が同じ場所に建てられました。
 初代赤塚郵便局長は、石黒茂範(石黒弾右衛門家)で、2代目は中原遠志知でした。 中原遠志知は、2代目の赤塚村村長になっています。新潟市の発行する本には、洋館風の赤塚郵便局の写真が掲載されています。

 後に、石黒家屋敷跡には、保育園が建てられました。

 

 

 大慈寺の近くの家から、江戸中期、悦巌禅師という人が生まれました。

 近くの飴屋に、夜な夜な、決まって同じ時間に、とある女性が三文銭を手に飴を買いに来ました。不思議に思った飴屋の人は、その女性の後をついて行くと、中野家の墓地でその女性は消えてしまいました。不思議に思った飴屋の人と村人は、翌朝、墓を掘り起こしたら、女性の姿が見れ、抱きかかえるように赤ん坊がいました。すぐ脇には飴の棒があり、赤ん坊は生きていたので、育てられることとなりました。
その後、この赤ん坊は、大きくなり、僧侶として修行に行き、加賀の前田家の天徳院の大和尚に任命され、名僧として有名になりました。それが悦巌禅師(えつがんぜんじ)です。

 赤塚には、江戸時代に最大6つの寺院があったそうです。赤塚は僧侶にとってちょっとしたメッカなのでしょうか。関川村の「大したもん蛇祭り」の主人公でもある僧侶・蔵市は、京都で修行し、故郷の赤塚へ帰ろうと関川に寄ったら大蛇に逢った、という物語に登場します。

 

 

 大慈寺が明治42年8月1日に消失する前の写真が残されています。
 8月1日は、赤塚にとって今でも「厄日」と言われています。1600年8月1日に、赤塚のお城が「上杉遺民一揆(越後一揆)」で石黒家によって陥落・炎上したことから始まり、江戸中期に赤塚本町が8月1日に大火。明治42年8月1日の新町大火によって大慈寺や赤塚神社などが消失したそうです。

2009年12月19日土曜日

12月16日 大雪

予想的中に、15日夜にどっさりと雪が降ったようで、16日は積雪が30センチに。
この日~今日現在(19日)まで、「里型」の雪で、新潟市内の平野部は大雪となっています。
他の方々の話では、長岡や小千谷、柏崎、新津辺りではそれほど雪は積もっていないとか。
タイヤが雪で思うように動かず、苦闘しました。
赤塚でこれほどの雪が積もるのは珍しいでしょう。
赤塚は恐らく、県内でも有数の雪の少ない地域ですが、今回だけは・・・って感じですね。

あれから角田山にも雪が積もり、真っ白に。

佐潟の水面は氷が張って、カモは凍っていない所と凍っている所の水際に列を成して休憩中でした。

ときどき、ちょこちょこっと小鳥が氷の上を歩いていました。
 
雪は新聞によると、明日がおおきな雪だるまマーク。22日以降は雨マークでした。