山麓には、城主や政務の屋敷や、中世に造られた曲輪(くるわ)が広がり、併せると大きな規模のお城でした。
村上城は、江戸初期に堀直寄によって築かれた「平山城(ひらやまじろ)」の形式であるお城です。
改めて、自分の運動不足を痛感しました。
斜面には、ブナが生い茂っています。
斜面には、ブナが生い茂っています。
山頂の城郭への最初の入口「四ツ門」です。
この門は、入口が四方に入口がある、とても珍しい門です。また、三の丸(写真の奥側)と二の丸をつなぐ門でもあり、軍事上重要な門でもあります。
この門は、入口が四方に入口がある、とても珍しい門です。また、三の丸(写真の奥側)と二の丸をつなぐ門でもあり、軍事上重要な門でもあります。
村上城の東側には、斜面に無数の曲輪があります。これは、中世、本庄氏の居城であったころのもので、江戸時代も使用されていました。
東門は、これらの曲輪と、山頂の城郭の中間に位置する区切り的な門です。
今では、残念なことに、石垣がボロボロになっています。もう少し、整備されると良いですね。
東門は、これらの曲輪と、山頂の城郭の中間に位置する区切り的な門です。
今では、残念なことに、石垣がボロボロになっています。もう少し、整備されると良いですね。
さて、実は私、お城マニア暦13年です。今あるお城を見るのもさりながら、建物が残っていない城を中心に見ています。
かつての姿を妄想するのは、とても面白いです。軍事的、兵法、時代背景、その時代の技術などの視点で見ると、石垣だけしかないお城も、自分のイメージとして何だか建物があるようにも見えてくるのです。
写真の「御鐘門」は、外部から右曲がりで進入します。(矢印の通り)
これは、孫氏の兵法に、「利き手」に関係します。多くの人は「右利き」です。右利きは、左側への攻撃は容易ですが、右側への攻撃は難しいのです。 試しに、何か棒を槍代わりにして振ってみると分かります。
つまり、敵は右への攻撃にもろく、城内の兵は敵の右側を攻撃するという戦法になります。
かつての姿を妄想するのは、とても面白いです。軍事的、兵法、時代背景、その時代の技術などの視点で見ると、石垣だけしかないお城も、自分のイメージとして何だか建物があるようにも見えてくるのです。
写真の「御鐘門」は、外部から右曲がりで進入します。(矢印の通り)
これは、孫氏の兵法に、「利き手」に関係します。多くの人は「右利き」です。右利きは、左側への攻撃は容易ですが、右側への攻撃は難しいのです。 試しに、何か棒を槍代わりにして振ってみると分かります。
つまり、敵は右への攻撃にもろく、城内の兵は敵の右側を攻撃するという戦法になります。
本丸の石垣は、「扇の勾配」と呼ばれるもので、上へ行くにつれて角度が急になります。
当時の技術の凄さに驚きます。
当時の技術の凄さに驚きます。
今も、本庄氏の時代の曲輪を見ることができます。
中世・戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の城郭の姿を見ることができます。
中世・戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の城郭の姿を見ることができます。
石垣をよく見ると、何やら穴があります。これは礎石です。
柱を立てる際に、礎石と柱をつなぐための穴です。
その穴に柱をイメージすると、写真のようになります。写真の左手は小さな入口(くぐり戸)があったということが分かるかと思います。
柱を立てる際に、礎石と柱をつなぐための穴です。
その穴に柱をイメージすると、写真のようになります。写真の左手は小さな入口(くぐり戸)があったということが分かるかと思います。
この2つの穴は、門の上にある櫓を支える柱です。
この穴から、おおよその門の柱スパン(間隔)がわかります。1間くらいですね。
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