特に、弥彦~新潟間の北陸道・北国街道を中心としたものについて、我流で勉強しています。
いままで、北陸道・北国街道に関して、そのルートについてきちんとした形でまとめられたものが、このエリアにおいては作られていませんでした。
そこで、「誰もやらないのなら、自分がやる」という発想で、色々な史料や独自の調査方法で、まとめてみました。

赤塚地域より新潟側の街道については、海岸線を通っていました。
しかし、江戸中期になると、農機具に鉄器が使用され、それが普及したので、比較的開発が容易になりました。
そのため、徐々に内陸部の潟が新田開発され、内陸部に集落が形成されました。内野地域も、文政3年に新川が造られる前後に、発展し、交通量も増えました。
そのため、徐々に内陸部の潟が新田開発され、内陸部に集落が形成されました。内野地域も、文政3年に新川が造られる前後に、発展し、交通量も増えました。


上は中権寺地域です。今の第四銀行・コメリ・原信などの団地は、かつて長潟という潟がありました。

上は内野、槇尾、新通地域です。オレンジ色の線が北陸道・北国街道で、このルートは江戸中期から徐々に使われ、明治時代に入ると、公の地図には「北陸道」と明記されています。

上は坂井、新通、亀貝地域です。

上は小針、寺地、山田、立仏地域です。この地域には、小さな潟が点在し、白鳥潟、二枚目潟、三枚目潟、ガイルマ潟、的場潟、徳人潟などがありました。
信濃川は昔、立仏、寺地地域を通っていました。現在の、「ふるさと村」や新潟日報社がある地域は、合子作という信濃川の中にある島でした。ここに取り上げた航空写真は、戦後まもなく撮影されたもので、その多くがGHPによるものです。
今では、大堀幹線付近、西区役所付近、青山のジャスコなどは水田であったことが、これらの航空写真から見ることができます。
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